先週の都響スペシャルに続いて、アラン・ギルバート指揮・都響の定期演奏会をサントリーホールで聴く。モーツァルトの交響曲第39番・第40番、休憩をはさんで第41番《ジュピター》。コンサートマスターは矢部達哉さん。
マケラ指揮のマーラーで都響の大編成に痺れた後だったが、モーツァルトで小編成となったオケは逆に新鮮に感じられた。指揮台もなし。アラン・ギルバートも黒いシャツ姿でくつろいだ雰囲気で登場し、顔を見るたびに「この人は気難しいのだろうか、優しい人なのだろうか」と色々考えてしまうが、この日は哲学者のようなオーラが感じられた。
「交響曲第39番」のアダージョは音量控え目で、シックで上品な質感の、高級糸で織り上げられた服地を思わせる音楽だった。木管が物凄く丁寧に塗り重ねられていて、打楽器も脅かすようなところが一切なく、とても秘められたものを感じさせた。特に面白味を引き出そうとしているような力みは一切なく、雫が自然に落下するように雅やかで美しいことが次々と起こる。
「アラン・ギルバートは正統派だし」と咄嗟につまらないことを言いそうになったが、聴けば聴くほど保守的な音楽などではなかった。真面目なモーツァルトほどつまらないものはない。真面目にやらなければ古典派の謹厳な様式感は出ないのかも知れないが、例えば『コジ・ファン・トゥッテ』のようなおかしな話を、歌手もオケも200%真面目にやっている舞台は、今の自分には堅苦しすぎて見続けることは出来ないのだ。
真面目なモーツァルトを何故聞きたくないのかというと、「生きねばならぬ」という古い時代の重力が、音楽の艶や輝きを殺してしまうから。都響とアランのモーツァルトは、淡々としているようで、哄笑的な何か、きわどいほど艶麗で危険な何かを孕んでいた。そもそもなぜモーツァルトの、ある時代にさらさらと書かれた3つのシンフォニーを一夜で演奏しようとしたのか。
39番、40番、41番の交響曲は、何かが異常だ。天才の中の霊感が電気のように疼いている時期に、人間の力だけではない、突然降ってきた宇宙感覚とともに書かれたとしか思えない。なぜこの持続が、次の位相へつながっていくのか…ぼうっとして聴いていれば心地よい「流れ」に身を任せられるが、ひしめているエネルギーは不穏だ。
40番はほぼ狂気から出来上がっている。誰もが知る名曲で、こんないたずらを残していったモーツァルトは正真正銘の宇宙人だと思う。噓泣きのようなセレナーデ風のメロディから始まって、音楽はどんどん不可解になっていく。この曲が女性なら、こんな相手を愛した男性は水中にいるみたいに息が出来なくなってしまうだろう。わけがわからない。その微笑みはなんなのか、媚態なのか拒絶なのか、答えのない問いのような音楽で、精巧な音の細工の全体が表しているのは、まさに高度な「遊び」なのだ。
個人的に好みの曲のせいもあるが、指揮者は特に40番で楽しそうに見えた。しかじかの瞬間に起こる狂気を、とても理性的に推進させていた。都響は指揮者の最も知的でユーモラスな部分と通じ合っていたと思う。ギルバートと都響なのだから、細かなディスカッションというよりテレパシーで作っていたのかも知れない。
束の間のなぐさめのような、子供の隠れん坊みたいなアンダンテと。ドンナ・エルヴィーラのヒステリーのような四角張ったメヌエットの後、再び狂気が爆発する。
遊ぶことや駆け引きが苦しくなって、死ぬのは馬鹿げている。モーツァルトも死んでしまったし、人は誰でも死ぬのだから、本気で遊んで狂うべきで、そこに生きることの新しい可能性がある。
第4楽章の構造的な「とんでもなさ」は、バーンスタインが1973年に収録したハーバード大学のレクチャーで何度も反芻していた。53歳のマエストロは、エリート学生たちを前にして、この4楽章がいかに無意味なモティーフの乱入によって活き活きとするかを説いていた。
アラン・ギルバートは、ときどきバーンスタインとイメージが重なることがある。ニューヨーク・フィルというオーケストラは、何か特別な人を引き付ける場所なのかも知れない。
バーンスタインが、うぶな娘のようにキャッキャと驚愕していた箇所も、ギルバートは日常茶飯事のように見事に、平然と振る。バーンスタインは実際、マーラー悲劇的を泣きながら振ったりして、とてもうぶな人なのだ。ギルバートのほうが魂的に「悪女」なのである。
なぜだろう。先日の都響スペシャルの「チック・クリアに捧ぐ」でも、バーンスタインのことを思い出した。全く違うけれど、何かが似ている。バーンスタインも、アラン・ギルバートのように音楽をしたかったのかも知れない。素敵なミュージカルも書いたけれど、何かを証明するために晦渋な曲も残した。バーンスタインが生きた時代は「生きねばならない」時代であり、強く生きるためにウイスキーと煙草の力を借りて無茶な創作をし、もっと生きられたかも知れない命を縮めてしまった。
休憩の後の『ジュピター』も名演だったが、客席にいて、40番にすべて搾り取られてしまった。あんな魔性のシンフォニーってあるだろうか…。それでもやはり『ジュピター』も名曲で、好色な木星王が金の雨になって女神の寝室に行くような、風船のように膨張していくカラフルなストーリーが目に浮かんだ。木星はガスの惑星で、占星術では歓喜と楽観のシンボルで、射手座と魚座の守護星。メシアンは自分が射手座であることを気に入って「射手座」という曲を書いた。アラン・ギルバートは魚座で、彼にとっても木星は頭の上がらない天体…と、クラシックファンにとってはどうでもいいことなども考える。
「生きねばならない」重苦しい時代から、遊ぶようにただ輝く時代へと進むトンネルのような、7月下旬のコンサートだった。
マケラ指揮のマーラーで都響の大編成に痺れた後だったが、モーツァルトで小編成となったオケは逆に新鮮に感じられた。指揮台もなし。アラン・ギルバートも黒いシャツ姿でくつろいだ雰囲気で登場し、顔を見るたびに「この人は気難しいのだろうか、優しい人なのだろうか」と色々考えてしまうが、この日は哲学者のようなオーラが感じられた。
「交響曲第39番」のアダージョは音量控え目で、シックで上品な質感の、高級糸で織り上げられた服地を思わせる音楽だった。木管が物凄く丁寧に塗り重ねられていて、打楽器も脅かすようなところが一切なく、とても秘められたものを感じさせた。特に面白味を引き出そうとしているような力みは一切なく、雫が自然に落下するように雅やかで美しいことが次々と起こる。
「アラン・ギルバートは正統派だし」と咄嗟につまらないことを言いそうになったが、聴けば聴くほど保守的な音楽などではなかった。真面目なモーツァルトほどつまらないものはない。真面目にやらなければ古典派の謹厳な様式感は出ないのかも知れないが、例えば『コジ・ファン・トゥッテ』のようなおかしな話を、歌手もオケも200%真面目にやっている舞台は、今の自分には堅苦しすぎて見続けることは出来ないのだ。
真面目なモーツァルトを何故聞きたくないのかというと、「生きねばならぬ」という古い時代の重力が、音楽の艶や輝きを殺してしまうから。都響とアランのモーツァルトは、淡々としているようで、哄笑的な何か、きわどいほど艶麗で危険な何かを孕んでいた。そもそもなぜモーツァルトの、ある時代にさらさらと書かれた3つのシンフォニーを一夜で演奏しようとしたのか。
39番、40番、41番の交響曲は、何かが異常だ。天才の中の霊感が電気のように疼いている時期に、人間の力だけではない、突然降ってきた宇宙感覚とともに書かれたとしか思えない。なぜこの持続が、次の位相へつながっていくのか…ぼうっとして聴いていれば心地よい「流れ」に身を任せられるが、ひしめているエネルギーは不穏だ。
40番はほぼ狂気から出来上がっている。誰もが知る名曲で、こんないたずらを残していったモーツァルトは正真正銘の宇宙人だと思う。噓泣きのようなセレナーデ風のメロディから始まって、音楽はどんどん不可解になっていく。この曲が女性なら、こんな相手を愛した男性は水中にいるみたいに息が出来なくなってしまうだろう。わけがわからない。その微笑みはなんなのか、媚態なのか拒絶なのか、答えのない問いのような音楽で、精巧な音の細工の全体が表しているのは、まさに高度な「遊び」なのだ。
個人的に好みの曲のせいもあるが、指揮者は特に40番で楽しそうに見えた。しかじかの瞬間に起こる狂気を、とても理性的に推進させていた。都響は指揮者の最も知的でユーモラスな部分と通じ合っていたと思う。ギルバートと都響なのだから、細かなディスカッションというよりテレパシーで作っていたのかも知れない。
束の間のなぐさめのような、子供の隠れん坊みたいなアンダンテと。ドンナ・エルヴィーラのヒステリーのような四角張ったメヌエットの後、再び狂気が爆発する。
遊ぶことや駆け引きが苦しくなって、死ぬのは馬鹿げている。モーツァルトも死んでしまったし、人は誰でも死ぬのだから、本気で遊んで狂うべきで、そこに生きることの新しい可能性がある。
第4楽章の構造的な「とんでもなさ」は、バーンスタインが1973年に収録したハーバード大学のレクチャーで何度も反芻していた。53歳のマエストロは、エリート学生たちを前にして、この4楽章がいかに無意味なモティーフの乱入によって活き活きとするかを説いていた。
アラン・ギルバートは、ときどきバーンスタインとイメージが重なることがある。ニューヨーク・フィルというオーケストラは、何か特別な人を引き付ける場所なのかも知れない。
バーンスタインが、うぶな娘のようにキャッキャと驚愕していた箇所も、ギルバートは日常茶飯事のように見事に、平然と振る。バーンスタインは実際、マーラー悲劇的を泣きながら振ったりして、とてもうぶな人なのだ。ギルバートのほうが魂的に「悪女」なのである。
なぜだろう。先日の都響スペシャルの「チック・クリアに捧ぐ」でも、バーンスタインのことを思い出した。全く違うけれど、何かが似ている。バーンスタインも、アラン・ギルバートのように音楽をしたかったのかも知れない。素敵なミュージカルも書いたけれど、何かを証明するために晦渋な曲も残した。バーンスタインが生きた時代は「生きねばならない」時代であり、強く生きるためにウイスキーと煙草の力を借りて無茶な創作をし、もっと生きられたかも知れない命を縮めてしまった。
休憩の後の『ジュピター』も名演だったが、客席にいて、40番にすべて搾り取られてしまった。あんな魔性のシンフォニーってあるだろうか…。それでもやはり『ジュピター』も名曲で、好色な木星王が金の雨になって女神の寝室に行くような、風船のように膨張していくカラフルなストーリーが目に浮かんだ。木星はガスの惑星で、占星術では歓喜と楽観のシンボルで、射手座と魚座の守護星。メシアンは自分が射手座であることを気に入って「射手座」という曲を書いた。アラン・ギルバートは魚座で、彼にとっても木星は頭の上がらない天体…と、クラシックファンにとってはどうでもいいことなども考える。
「生きねばならない」重苦しい時代から、遊ぶようにただ輝く時代へと進むトンネルのような、7月下旬のコンサートだった。