雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

されどラーメン

2012年04月27日 | ポエム


 されどラーメン

 熊本ラーメンが好きである。
 無性に食べたくなってしまうのだ。やや中毒に近いのかもしれない。
 ただし、ある程度歳をとってからは家人のきびしい目が光っていて、カロリーの高い熊本ラーメンは月に一度と限定している。
 太くも細くもない麺。1、2枚のチャーシューに半分に切った煮卵。海苔1枚に小ネギとキクラゲ。それがオーソドックな具。やはり決め手は白濁した豚骨スープの味。昔、新宿の桂花ラーメンの店には、「3回食べたら病み付きになります」と書いてあった。当然最後はどんぶりを両手で抱え上げ最後の最後の一滴まで飲み干していたが、結婚後はそれも家人に指摘され、泣く泣くスープは残すようになった。
 以前、熊本ラーメンは、朝昼晩の3食のうちには入らず、小腹がすいたときに食べる夜食や間食のように言われていたように思う。だから正当な熊本ラーメンのどんぶりは、完全な1食として食べる札幌ラーメンなどと較べると小ぶりになっている。今では熊本でも1食として食べることが多く、どんぶりも変わってしまった。でも街に出てお酒を飲んだ夜は、最後の締めにと、熊本ラーメンが誘惑する。健康嗜好の我が家の敵である。
 高カロリーというだけでなく、熊本ラーメン独特の豚骨スープとニンニク臭は、時を選ばず食べることが難しい。さらに家族の中でカミさんと娘は、熊本県人としてはめずらしく、どちらかと言うと濃厚な豚骨ラーメンが苦手であることも、熊本ラーメンの我が家での地位を低くしている。
 したがって食べるのは休日に限られる。20歳代後半の長男も僕に負けずラーメン好きで、週に1、2度は食べているようだ。母親に「そろそろ気をつけないと」と、注意をされている。たまに長男と休日が重なったときに、まだ行ったことの無い話題のラーメン屋などに二人で出かけることもある。
 近年は全国的なラーメンブームで、熊本ラーメンも知名度を上げて全国区となっている。休日のお昼には店の前には、県内外からのラーメン愛好家の長い列が出来ていることも多い。
 僕の中のラーメンの原点は、幼い頃に食べた流しの屋台のラーメンだ。小さい頃の記憶だが、今よく見かける自動車を改造した動力付きの移動屋台ではなく、人力で引く、リヤカーを改造したもので、本物の生チャルメラを吹いていた。未だにその頃食べていた屋台のラーメンの味の記憶を越えるものは無い。まだ美味しい物が少ない時代に、本来の味以上の美味しさを感じていたのだろう。
 僕には、ラーメンを提供していた料理人の血も流れている。僕の母方の祖母は、第ニ次大戦終了まで旧満州のハルピンで食堂を経営しており、ラーメンを提供して人気があったらしい。「豚骨と野菜を煮て、ネルの布で漉して‥‥」とよく話をしていた。
 今月は、通常仕事のある土曜日に臨時の休みが出来たので、以前から行きたかった日曜定休の比較的新しいラーメン屋さんに一人で行った。お昼前に着いたが、お店の入り口の前には席待ちの客がすでに数人が並んでいた。やっと順番が来てカウンターに座り、注文をし、さらに待って目の前にラーメンが供されたときの喜び。幸福感はピークを迎える。そして幸せな時間はスープを気持ちだけ残して、あっという間に過ぎる。とたん、来月が待ちどうしく思ってしまう。やっぱ中毒だ。
(2012.4.26)/font>
コメント
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