雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

間が悪い人

2013年09月24日 | エッセイ

▲南外輪に十七夜の月が沈む(2013.9.22)

 間が悪い

 先日、朝起きてテレビのスイッチを入れたら、好きなバロック音楽のコンサートを放送していたので聴きながら朝食の準備をしていた。ところが、一曲終わった後、会場の聴衆の「ブラボー」の声と拍手のタイミングがあまりに早くて鼻白んでしまった。待ってましたとばかりに、1秒の間も空けずに拍手する必要があるのだろうか?0.1秒でも早く、拍手することが、演奏者への礼儀にかなうという音楽界の習慣があるのだろうか。楽器を引く手は止まっていたとしても、音楽はまだ空間に漂っているような気がする。もう少し間をおいて、その余韻を楽しませてもらいたいな。
 どうしても間が悪い人がいる。いい人には違いないけど、とにかく笑ってしまう程、私にとって間が悪い人なのだ。その方は、私の勤めている法人の損害保険の担当をされていた外交員のKさんだ。それぞれの親の代からの保険の付き合いをしていたが、すでに定年を迎えられた。
 例えば、契約更新の手続きをしなければならないときに、数日前に訪問日の打ち合わせの電話がある。保険会社は熊本市内にあり、私の勤め先は上天草市内だから、片道1時間20分ほどかかる。往復、3時間近くの無駄足は踏めないので、事前の打ち合わせは必須だ。
 「その日なら1日おりますので、何時でも大丈夫ですよ」と、私が答えて、「では○○日の○曜日の朝10時頃におじゃましてよろしいですか」と、Kさんが念を押す。もとより、その日なら何時でもいいと私はすでに申し出ている。Kさんの丁寧すぎる電話に、その時点ですでに私はちょっとイライラ。
 当日、Kさんから、約束した「10時に少し遅れてしまう」との電話。もとより、その日なら何時でもいいと私は先日申し出ている。Kさんのバカ丁寧な対応に、その時点でさらにイライラ。そしてさらに予想通り「前の用件に時間がかかって、お昼前になりますが、よろしいでしょうか」と連絡。「だから最初から何時でもいいと言ってるでしょうが」と口から出そうになるのをグッと押さえる。それから正午をまわる。お腹もすいたし、昼食を作りながら待っていた。茹で上がったソーメンを冷水で洗い、ざるに盛り麺つゆに薬味を入れて、ソーメンを箸ですくい、まさに一口食べようとした瞬間に「ピンポーン」。何時でも良かったその日、私の最も間が悪いときを見計らったようにKさんは、訪問されるのである。
 これは1例で、Kさんの来訪や電話は、いつも何だか間が悪いのだ。
 2010年の1月に亡くなった私の父は、雨男を自認していた。
 後年はさらに進化して、旅行が好きだった父の旅先には、雨どころか台風がやって来る事が重なり、「嵐を呼ぶ男」と回りは密かに呼んでいた。
 亡くなった翌年の5月の末に、父が一番可愛がっていた孫の結婚式が横浜であった。なんとそのときは季節外れの5月の台風がやってきて、九州から参加する私たちは、飛行機が飛ぶか心配した程の大荒れの天気だった。父が「嵐を呼ぶ男」であったことを知っている親類は、結婚式の会場に父の魂がやってきていたことを確信していた。
 8月の末、出張先の福岡でのこと。用件を一つ済ませて、もよりの西鉄の駅迄数分の距離を歩こうとビルを出た途端、いきなり大粒の雨が降り出した。カミナリまで鳴っている。すぐに近くのビルのひさしに避難したが、もうすでに靴もズボンもずぶ濡れになっていた。「間が悪い」
 考えたら、車で通勤しているが、私が車から乗り降りしようとする時に、雨が降り出したり、雨脚が急に強くなったりすることが多い。大慌てで家の中に入った途端、車に乗り込んだ途端に、今度はぴたりと雨が止むのだ。
「間が悪いわねえ」と、いつも家人に笑われる。
 雨男や嵐を呼ぶと言われた父は、広い意味で「間が悪い」と言えるかもしれない。
 そう言えば、8月末の出張先での雷雨は台風が直接の原因だった。ひょっとして私も「間が悪い」を通り越して嵐を‥‥。
 (2013.9.20)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする