かわたれどきの頁繰り

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【書評】ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『権力の心的な生』(月曜社、2012年)

2013年09月23日 | 読書


 今、世界は(というより人類は)、1%のプルトノミーと99%のプレカリアートに分裂している。99%のプレカリアートの叛乱は、世界中の各地で生起しつつある。中でももっとも印象的だったのは、「99%」であることを明示的に標榜してなされた「オキュパイ運動」である。2011年9月19日にニューヨークで「ウォールストリートを占拠しろ(Occupy Wall Street)」という合い言葉のもとに1000人規模で始まった金融資本への抗議である [1]
 1%のプルトノミーの象徴的存在としてのアメリカ金融資本を名指しての運動は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートならさしずめ「マルチチュードの叛乱」と呼ぶところであろう。プレカリアートとマルチチュードは同じ概念ではないが、99%がプレカリアートであれば、マルチチュードと名指される人々と重なってしまう。

 「オキュパイ運動」は、プレカリアートの行動としてはきわめてシンボリックではあったけれども、世界中のプレカリアート(マルチチュード)のあいだに共鳴音や共鳴振動が生じたという兆しが必ずしも見えたというわけではない。
 おそらく、99%のほとんどは目覚め、自覚し、反抗に至るまでの主体形成を行なうことができないでいる。それがプレカリアートの避けがたい困難性であることは、反貧困の活動を行なっている湯浅誠もつとに指摘していることだ [2]

 アメリカ合州国発の新自由主義が世界を席巻している現代世界で、支配され、従属状態にある99%の主体形象として、ネグリ&ハートは次のように指摘している。

 新自由主義の勝利とその危機は人びとの経済的・政治的生活の条件を一変させたが、それはまた社会的・人間学的〔=人類学的〕変容を引き起こし、新たな主体形象を作り上げた。金融と銀行のへゲモニーは「借金を負わされた者」を生みだした。情報とコミュニケーションのネットワークに対する管理は「メディアに繁ぎとめられた者」を創り出した。セキュリティ体制と例外状態の全般化は、恐れにとりつかれ、保護を切望する形象としての、「セキュリティに縛りつけられた者」を構築した。そして民主主義の腐敗は「代表された者」という奇妙に非政治化された形象を作り出した。 [3]

 ささやかな住まいも耐久消費財も借金(ローン)なしで手に入れられない私たちは、借金を抱えているという事実に拘束されないで未来を見通すことができない「借金を負わされた者」である。
 私たちはまた、マスコミ・メデイアの不作為的な、ときには作為的な情報に右往左往して、昨日は民主党、今日は日本維新の会、明日は自民党と簡単に煽られてさらさら流れてしまう政治意識しか持たない「メディアに繁ぎとめられた者」である。
 オウム真理教事件に戦き、実際には年々減っているにもかかわらず凶悪な少年犯罪が増えていると煽られて、厳罰化する法改正をわが身に降りかかる想像力もないまま受け入れ、ひたすら他者に不寛容になり、自らを監視するモニターカメラの林立を望んでしまう私たちは「セキュリティに縛りつけられた者」である。
 そして、投票権の格差を放置したままの民主主義的根拠のない選挙制度によって選ばれた政治家に「代表された者」であり、それはまた私たちが選挙に関心を失う一つの契機となり、望んだわけでもないのに「メディアに繁ぎとめられた者」が選んだ政党政府に「代表された者」として私たちはこの日本で今を生きている。

 だから、問題は私たちの「主体」そのものである。どのような契機で私たちは自らを「主体化」したのか? どのような心的機制で私たちはこのような「主体形成」を行なってきたのか?
 これが、ジュディス・バトラーによる本書の主題である。しかし、「主体化=服従化に関する諸理論」という副題を付したこの本は、「主体性」の話ではなく、あくまで「主体形成」の機制の話である。

「主体化=服従化[subjection]」とは、主体になる過程を指すとともに、権力によって従属化される過程を指す。アルチュセール的な意味で呼びかけによるのであろうと、フーコー的な意味で言説の生産性によるのであろうと、主体は権力への原初的服従を通じて創始される。フーコーは、この定式化の両義性[ambivalence]を認めているにもかかわらず、服従において主体が形成される固有のメカニズムについて詳述していない。フーコーの理論においては、心的なものの領域全体がほぼ言及されないままになっているだけでなく、[主体を]従属化すると同時に生産するというこの二重の誘因を持った権力が探究されないままになっている。 (p. 10-1)

 「主体化」はフランス語でassujettissementという(らしい)。しかし、アルチュセールやフーコーの言説に明らかなように、それは「服従化」という意味の方に比重がかかっている言葉だ。バトラーは、「主体化=服従化[subjection]」という命題からその議論を始める。つまり、アルチュセールやフーコーは、社会(共同体から国家までのあらゆる社会)の権力(支配イデオロギーや法)がもたらす服従化をもって「主体化」の契機としている。

 アルチュセールの比喩的な表現によれば、警察官の「おい、お前」という「呼びかけ」に振り向いたときに「主体化=服従化」が始まるという。その「振り向き」において、人は社会(権力)から呼びかけられる主体であることを自覚する。

 アルチュセールが提示した「呼びかけ」の光景は、社会的な主体が言語的手段によっていかに生産されるかを説明しようとする、半ば虚構的な列である。呼びかけに関するアルチュセールの見解は、明らかに、「主体の言説的生産」に関する後のフーコーの見方を準備している。むろんフーコーは、主体は「語りかけられる」ことで存在するようになるのではないし、権力の諸々のマトリックス〔母基〕と、主体を構成する言説は、それらの生産的行為において単一のものでも至高のものでもない、と強調している。しかし、アルチュセールとフーコーは、主体化=服従化〔assujetussement〕の過程には基礎づけ的な従属化が存在する、という点で一致している。アルチュセールの試論「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」において、主体の従属化は、個人に呼びかける権威的な声の効果として、言語を通じて生起する。アルチュセールが提示する有名な例では、警官が通行人に呼びかけると、通行人は振り向き、自分が呼びかけられた者であることを再認する。再認が申し出られ、受け容れられるやりとりの中で、呼びかけ――社会的主体の言説的生産――が生起するのである。意味深いことにアルチュセールは、なぜその個人が振り向き、彼あるいは彼女に呼びかけられた声を受け容れ、その声が生み出す従属化と規範化を受け容れるのかについて、手がかりを提示していない。 (p. 13-4)

 バトラーは、細部において批判的に取りあげているけれども、アルチュセールやフーコーによる主体化=服従化の契機としての権力論を大筋で認めたうえで、権力からの呼びかけへの「振り向き」とは何かを問い、始原的な主体における「振り向き」を次のように理解する。

この権力が取る形式は、振り向くこと[turning]、つまり自分自身へと還帰すること[turning back upon oneself] あるいは自分自身に対して振り向くこと[turning on oneself] という形象によって執拗に徴しづけられている。この形象は、いかに主体が生産されるか、従って、厳密に述べるなら、この振り向きを行うようないかなる主体も存在しない、ということを説明する要素として機能している。それどころか、振り向きは、主体の創始の比喻として、その存在論的地位が常に不確かなままであるような基礎づけの瞬間として機能しているように思われる。 (p. 10-1)

 つまり、「振り向き」は呼びかけた権力(アルチュセールの比喩の警察官、支配イデオロギーや法)の呼びかけに振り向くことばかりではなく、振り向く自我を自覚することで自分自身をも振り向く、つまり、自己へ還帰するのだ。「振り向き」という行為の瞬間の主体を、バトラーは次のように問うている

なぜこの主体は法の声に対して振り向くのか、また、社会的主体を創始するこうした振り向きの効果とは何なのか。これは罪のある主体なのか、もしそうだとすれば、どのようにして主体は罪あるものとなるのか。呼びかけの理論は良心の理論を必要とするのか。 (p. 14) 

 こうして、バトラーは、権力による従属化が生起する心的な主体化のプロセスを、精神分析の領野に踏み込みながら明らかにしようとする。ここですでにバトラーは服従化が「罪のある主体」によって担われることを示唆している。またそれは、「主体は罪あるもの」として主体化=服従化するという時間的な矛盾を抱えていることすら予兆として与えている。
 つまり、法の声に振り向くのは「罪ある主体」であるためのはずだが、振り向くことで始原的な主体ははじめて「罪ある主体」として服従化することになる。つまり、「最初に呼びかけられることがなければいかなる振り向きも存在しないが、また、何らかの振り向く準備がなければ振り向きは存在しない」 (p. 134) はずなのである。この主体形成の循環性をバトラーは、主体形成の「定式化の両義性[ambivalence]」 (p. 11) と呼んでいる。

 「罪ある主体」として生成する心的なプロセス、その精神分析的な議論の過程は、ヘーゲル、ニーチェ、フロイトときどきラカンという具合で進められる。
 ヘーゲル『精神現象学』における「主人と奴隷」をバトラーは次のように読み解く。 

 〔奴隷の労働の〕対象の上に付された徴しあるいは記号は、単に奴隸の所有物であるだけではない――奴隸の徴しが付されたこの対象は、彼にとって、自分が事物に徴しをつける存在であり、その行為はある特異な効果、つまり還元不可能な仕方で彼のものである署名を生み出す、ということを含意している。この署名は、対象が主人――彼は対象に自分の名前を刻印し、それを所有し、あるいはある仕方でそれを消費する――に引き渡されるときに消去される。……むろん、奴隸は初めから、ある他者の名前や記号の下で他者のために働いていたし、署名が常に既に消去され、書き換えられ、収奪され、再意味化されるという一連の条件において、自分自身の署名によって対象を徴しづけていた。もし奴隸が、本人に対する代理人という従属的立場を一時的に逆転し、主人の署名を書き換えるなら、主人は、奴隸の署名を書き換えることで、対象を再我有化する。 (p. 53-4)

結局のところ、その署名は主人の署名によって書き換えられてしまったのである。彼は、まさしく署名の没収において、そうした収奪が生み出す自律への脅威において、自分自身を認識する。そのとき奇妙にも、ある種の自己認識が、奴隸の根本的に希薄な地位から導出される。その自己認識は、絶対的恐怖の経験を通じて達成されるのである。 (p. 54)

 ここでは、奴隷の主体内部の心的駆動力は脅威、恐怖である。主人による奴隷の支配とは、「生の文脈の内部で他者に死を強いる方法だった」 (p. 56) のであり、奴隷は死の恐怖を避けがたい運命と考え、「不幸な意識」に移行することで恐怖を克服しようとする。そのとき、自ら倫理的規範、倫理的禁令を作り、それを通じて自己に固執するのである。

不幸な意識に関する章は、倫理の領域の生成を、それを動機づけるような絶対的恐怖に対する防衛として説明している。恐怖から(そして恐怖に抗して)規範を作成し、これら規範を反省的に課することは、不幸な意識を二重の意味で主体化=服従化する。つまり、主体は規範に従属化され、規範は主体化=服従化する。言い換えれば、規範はこの出現する主体の反省性に倫理的形態を与えるのである。倫理的なものの記号の下で生起する主体化=服従化は、恐怖からの逃走であり、ある種の逃走と拒否として、恐怖からの恐怖に満ちた逃走――その恐怖をまず頑固さで、次に宗教的な自己正当化で覆い隠すような――として構成される。 (p. 58)

 ヘーゲルにおける主体化=服従化の心的プロセスを主導する「不幸な意識」は、ニーチェにおいては「疚しい良心」、フロイトでは「自我理想」とされ、同じような役割を果たす。バトラーは、ニーチェ、フロイトの思想を辿る理路の前に次のような戦略の概要を示している。

もし主体概念そのものにおいて前提とされているのが主体化=服従化への情熱的な愛着であるとすれば、そのとき、主体はこの愛着の例証と効果としてのみ現れるだろう。最初にニーチェの考察を通じて、次にフロイトとの関係において私が示したいのは、主体の出現の構造としての反省性の概念そのものが、いかに「自分自身への還帰」の帰結であり、「良心」という誤った名称を形成する反復的な自己叱責の帰結であるか、という点であり、主体化=服従化に対する情熱的な愛着なしにはいかな主体形成も存在しない、という点である。 (p. 85)

 しかし、議論は、権力(外部)からの呼びかけ(働きかけ、抑圧)によって主体が形成されるとしながら、それを契機に形成される「不幸な意識」、「疚しい良心」、「自我理想」が自我に向けて行なう「反省」によって主体形成がされるというふうにも理解される。そのような自己循環の矛盾については次のように述べている。

一方では、主体が仮定されており、いまだ形成されていないように思われ、他方では、主体が形成されており、従って仮定されていないように思われる、という論理的循環性は、フロイトとニーチェにおいてこの反省性の関係が常にただ形象化されるだけであり、この形象はいかなる存在論的要求もしない、という点を理解すれば改善されるのである。 (p. 87)

 したがって、反省に至るまでの自己還帰のメカニズムをニーチェとフロイトから探り出さなければならない。

 ニーチェは「疚しい良心の始まり」を、「暴力によって潜在的なものとされた自由への本能」と記述している。しかし、この自由の痕跡は、ニーチェが記述する自己束縛の中のどこにあるのだろうか。それが見出されるのは、苦痛を加える際に得られる快の中、道徳性のために、道徳性の名の下で自分自身に苦痛を加える際に得られる快の中である。従って、以前は債権者に帰されたこの苦痛を与える快楽は、社会契約の圧力の下で、内化された快に、自分自身を迫害する悦びに変わるのである。それゆえ、疾しい良心の起源は、自分自身を迫害することで得られる悦びであり、そのとき、迫害された自己は迫害の圏外には存在しない。しかし、処罰の内化はまさしく自己の生産であり、快と自由が奇妙にも位置しているのはこの生産の中なのである。処罰は単に自己を生産する力ではなく、この処罰の生産力そのものが意志の自由と快の場なのであり、その製作行為の場なのである。 (p. 94)

 人間の「自由への本能」(これは「力への意志」でもある)は、社会(権力)によって暴力的に抑圧される。そのとき、外へ向っていた自由への本能は自己の内部に向う。それは社会規範による禁制を抱え込むことで「疚しい良心」という自我の高位の審級となって、自分自身を処罰する。しかし、その自己処罰はマゾヒスティックな「快」として「自己を生産」するというのである。

 このニーチェによる心的機制は、フロイトへと繋がっている。私たちの身体的衝動、欲望は社会規範(法的権力)によって抑圧され、「リビドーはいったん法の検閲に服するが、その後その法の維持作用として再出現する」、つまり、「リビドーの抑圧は常にそれ自体、リビドー的に備給された抑圧」 (p. 98) なのである。「リビドー的に備給された抑圧」によって維持される「法」は、「自我理想」を自己の高位審級として生成せしめる。もちろん、この自我理想は家族や国家の理想と通底している。
 このようにして、フロイトもまた衝動や欲望が権力(法)による抑圧(禁止)を通じて自己還帰することによって、反省する良心が自己の中に形成されるとするのである。

 アルチュセールやフーコーが例証するように、権力(支配イデオロギー、法)による呼びかけは、学校、工場、監獄などあらゆるところでなされる。社会の網の目のように張り巡らされた権力構造の局所的なその場、その時に呼びかけがなされるのだ。そのつど、呼びかけに振り返り、自己還帰として心的な上位の審級である「良心(不幸な意識、疚しい良心、自我理想)」が生起し、自己生成としての主体化=服従化が行なわれる。それは無数の反復としての「主体化=服従化」である。

 さて、私たちの主体化は服従化そのものだけであろうか。バトラーは、私たちの権力(の呼びかけ)への抵抗についても言及している。抵抗する主体については、フロイトやラカンの精神分析的な解釈があるが、バトラーはそれについてはやや批判的に取りあげる。

より明確に言えば、精神分析が強調する抵抗は、社会的、言説的に生産されるのだろうか。それともそれは、社会的で言説的な生産そのものへの一種の抵抗、そうした生産そのものの浸食なのだろうか。次のような主張について考えてみよう――無意識はただ常に規範化に抵抗する。文明化の命令への順応のあらゆる儀式には、ある代価が伴う。それによって、軛から解放された、社会化されていないある種の残余が生産される。その残余は、法に従う主体という現象に異議を申し立てる――こういった主張である。この心的残余は規範化の限界を意味している。この見解が含意するのは、そうした抵抗が、言説的要求の諸関係――つまり、規範化を生起させる規律的命令――を作り直すあるいは再分節化するような力を行使する、ということではない。……無意識は主体の言語ほど、文化的シニフィアンを満たす権力諸関係によって構造化されているわけではない、と私たちに考えさせるものは何だろうか。もし無意識のレヴェルにおいて主体化=服従化への愛着が見出されるなら、そこからいかなる種類の抵抗が作動しうるのだろうか (p. 109)

 フーコーは、「抵抗を、それが対抗するとされる権力そのものの効果として定式化し」「法によって構成されると同時に、法への抵抗の効果でもあるという二重の可能性」 (p. 121) を述べている。

フーコーにおいて転覆あるいは抵抗の可能性は、しばしば次のような場合に現れる。(a)主体化=服従化を動員する規範化の諸=標を超えるような主体化=服従化の過程において、例えば、「逆転した言説」において。あるいは、(b)意図せざる仕方で生み出された言説複合体が規範化の目的論的な諸目標を浸食することで、他の言説的諸体制と収束することを通じて。従って、抵抗は権力の効果として、権力の一部として、その自己転覆として現れるのである。 (p. 114)

 簡略化して言ってしまうと(すこしばかり乱暴だが)、呼びかけの失敗、誤認、呼びかけられた主体のアイデンティティの失敗が抵抗の契機となるのである。一つの例を挙げれば、警察官が「おい、お前」と呼びかけるように、権力は「女」、「ユダヤ人」、「クイア」、「黒人」などと呼びかけるが、そのような名前で始まる呼びかけに対して、主体は応答をためらったり、応答しつつも否定的に内部化することもあるだろう。
 「もし呼びかけられた名前がそれの言及するアイデンティティを達成しようとするなら、それは、にもかかわらず想像的なものの中に逸脱してしまう行為遂行的な過程として開始される」ことになり、「アイデンティティが異議申し立て」 (p. 118) を受けるのである。このような契機で、私たちの主体化=服従化は権力(支配イデオロギー、法)への抵抗を内部化し、その魂が身体を拘束することによって抵抗する身体を形成するのである。 

 ジェンダー的同一化が、より正確に言えば、ジェンダーを形成する際にその中核をなす同一化が、メランコリー的同一化を通じて生産されるような仕方が存在するのだろうか。……もし女性性や男性性の引き受けが、常に脆弱な異性愛を達成することを通じて進行するとすれば、私たちはこの達成の力を、同性愛的愛着の放棄を命じるものとして、あるいは恐らくより明確に言えば、同性愛的愛着の可能性の先取り的回避として、生存不可能な情熱や哀悼不可能な喪失だと考えられている同性愛の領域を生産する可能性の排除として、理解できるかもしれない。 (p. 169)

 ここで言う「メランコリー」はなかなか難しい概念である。フロイトによれば、メランコリーは「意識から撤収された対象喪失」に関連していて、「理想が隠されて、失った人物「において」何を失ったのかわからない」心的状態である。「メランコリー患者は「自分が誰を失ったのかと言うことは知っていても、その人物における何を失ったのかということは知らない」と主張する」 (p. 214) という。
 このやっかいな概念が、上記の「同性愛的愛着の可能性の先取り的回避として、生存不可能な情熱や哀悼不可能な喪失だと考えられている同性愛の領域を生産する可能性の排除」という面倒な言い回しを支えているのである。ここで出て来る「排除」とは主体による抑圧ではなく、主体を基礎付け、主体を形成する否定行為を意味している (訳者解説、p. 265)

 主体としてのジェンダー形成におけるメランコリーの役割は、主体化=服従化における「不幸な意識」、「疚しい良心」、「自我理想」、いわゆる「良心」の役割と同等になる。

 こうしてメランコリーは、私たちを、心的なものの言説における基礎づけ的な比喩としての「振り向き」という形象へと連れ戻すのである。へーゲルにおいて、自分自身へと還帰することは、不幸な意識を徴しづける禁欲的で懐疑的な反省性の様態を意味している。ニーチェにとって、自分自身へと還帰することは、自分の過去の言動を撤回すること、あるいは自分の過去の行動に向き合って恥ずかしさのためにたじろぐことを示唆している。アルチュセールにとって、法の声に対する通行人の振り向きとは、反省的(自己意識が法によって媒介された主体になる契機)であると同時に、自己を服従化するものである。
 フロイトが提示するメランコリーについての語りによれば、自我は、愛がその対象を見失い、代わりに自分自身を愛の対象のみならず攻撃性と憎悪の対象と見なすときに、「自分自身に還帰する」とされる。 (p. 209)

 ここから、バトラーは主としてフロイトの精神分析を参照しながら、前著『ジェンダー・トラブル』の世界に踏み込んで議論している。議論は詳細を極めていて、ずっと以前に読んだ『ジェンダー・トラブル』を再読しなければ、私としては踏み込みようがない。

 最後に訳者解説として佐藤嘉幸の「主体化=服従化の装置としての禁止の法」という論考が付されている。本書の読解に大いに参考になる解説である。

 

[1] ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)
[2] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版、2013年)p. 24。



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