伊万里焼であれ何焼であれ、日本の陶磁器の基本的な作品を常設展示している施設があって、1年に何回か(回数を区切ることはないけれど)気が向いたときに眺めに行けたら、豊かに気分になれるかも知れない。
そういった意味で、『初期伊万里展』のような戸栗美術館所蔵品の企画展示は、大切な機会を提供してくれる。仙台からわざわざ出かけて来る身にしてみれば、「気が向いたとき」などと贅沢な気分はまったくないのだが。
展示室に入って、まず目を引いたのは「染付 吹墨梅花紋」の皿である。美術館の所蔵品を収録した『初期伊万里』 [1] には含まれていないのが残念だが、初めて眼にした図案である。吹墨といえば、図版のような「白兎紋」や「白鷺紋」が代表的(少なくとも私はそのような図案で吹墨を知った)だと思うのだが、梅花紋に吹墨というのは、春霧に霞む庭園で梅が咲いているような、かなりリアルな想像力をかきたてる表象のようで、「じつにいいなぁ」と思ったのである。私の「いいなぁ」は器として使ってみたいということなのだが、初期伊万里では到底不可能で、明治以降の写しでも探すしか手はないのである。
「染付 吹墨白兎紋 皿 (伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径21.0 cm)[2]
「山水紋」の器もたくさん展示されていたが、もっともシンプルな下の図版の鉢に惹かれた。岩山に陋屋、遠くに小舟、さらに遠くに山並みが描かれている。中心の空白が抜群である。背後に岩山を背負う村、その前に広がる大河(または湖)、遙か遠くの山脈。この広大さは、もうすでに世界そのもののようだ。中心の空白がかきたてる想像世界は広大無辺なのである。
「染付 山水紋 鉢(伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径47.1 cm)[3]
展示品の中では、この山水紋の鉢の絵がもっとも素朴でシンプルである。その他は、絵が上手になり、加えられるものが多くなり、立派な風景画(山水画)となっているが、世界は風景に切りとられた部分に縮小しているように思う。素晴らしい描画技術が世界を描きうるわけではない、ということか。
菊花紋もよくある図案だが、下の左図に良く似た皿の展示があって、「後年、菊花紋は16弁に図案化されるが、初期では16弁よりも多く描かれている」旨の作品説明があった。確かに、尾形光琳の完全にデザイン化された菊花は16弁である。私は琳派の絵は好きだが、光琳のデザイン化された菊花、特に別誂えで作っておいてペタペタと貼ったような菊花だけはどうしても受け付けないのである(さすがに酒井抱一も鈴木其一も16弁菊は引き継がなかったように思うのだが)。
「染付 吹墨白兎紋 皿 (伊万里、江戸時代(17世紀前期) 口径左20.7cm、右cm)[4]
自然の菊花の弁数に近いほどいいなどとはけっして思わないが、上の左図くらいの弁数が落ち着いていて、いいように感じる。右の器はたくさん描こうとして何となくバランスを失しているように思う。弁数を多く、かつ美しく表現するには平板化せずに、花弁を重ねるしかないのではないか、自然の八重咲きの花が全てそうであるように。
いや、いずれにしても、気分の安らぐ時間ではあった。
[1] 後藤恒夫、下条啓一、戸栗美術館監修『初期伊万里 ―蔵品選集―』(戸栗美術館、1997年)。
[2] 同上、p. 17。
[3] 同上、p. 10。
[4] 同上、p. 26。