かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(37)

2024年12月25日 | 脱原発

2016715

「すべての日本人が選挙前にそのことを理解することができれば、少なくとも福島事故をめぐる政治的問題は一挙に解決するのだが、ずっと目を閉じ、声を聴かないままでいたいと思っている人間も多いのだろう。状況の閉塞感(というよりも激しい後退感)に気づいていない人々が……。」

 福島の放射能汚染と被曝のことを考えていて、先週(78日)のブログを上のような言葉で締めくくった。その参議院選挙が終わった。野党統一候補の擁立が成功して、大敗した先の参議院選挙に比べれば野党側が大きく盛り返したが、それでも与党は3分の2近い議席を占めることになった。先週の私の書いた言葉は、そのとおりに私の心に残ったままである。
 事前予測もあって全体の選挙結果にはそんなに驚きも落胆もしなかったが、
沖縄と福島で野党統一候勝利し、自公政権の現役大臣を倒したということはきわめて象徴的な〈事件〉だと受け止めた。
 福島は、東電第一原発事故の放射能によって汚染された郷土や県民の被爆に対する政府の施策は「棄民政策」と呼ぶに等しいものであり、沖縄は日本の安全保障政策として強制された基地の犠牲者となるべくこちらは歴史的に「棄民政策」の対象であり続けた。
 政府も自らの棄民政策の意味を自覚しているがゆえに、その無能さにもかかわらず沖縄、福島の改選議員を閣僚に任命し、優位に選挙戦を戦えるようにしたはずなのである。しかし、沖縄と福島の人びとには、そんな政権の意図を凌駕するように政府権力を拒否する以外の選択肢がなかったのだ。
 新潟を含めて東北、北海道にかぎって選挙結果を見れば、10議席中8議席を野党が占めた。この結果もまた、歴史的にはアウタルキー(自給自足)経済のための植民地代わりの食糧生産地だけの〈辺境〉としてのみ中央政府から扱われてきた[1]にもかかわらず、政府の進めるTPPがその食糧生産地の意味をも奪い取ろうとしていることへの反抗として顕現したものだろう。
 このように地域を限って選挙結果を見れば、全体の結果と大きく異なってしまうのは、文字通り、政治的・経済的地域格差そのものを直接的に象徴しているに違いない。こうした事態への選挙民の自覚がどのように変化して行くのか、私には予想しかねるが、まったく反対の結果となった西日本では地域格差、政治格差は東北・沖縄とは異なるだろうが、経済格差そのものはまったく同じように拡大しているはずだ。子どもの貧困、保育所問題(労働環境の性差)、高齢者の困窮化などから逃れられている地域はない。彼らは何を見、そしてどこへ行くのだろう。

 参院選の結果は、SNS上の多くの知人、友人を落胆させたようだが、多くの人はめげずに先を見ているようで「諦めない。未来は変えられる」というような意味のことを発信する人が多かった。
 投票日の夜、テレビを消して開票速報は見ないで過ごした。台所の小さなワンセグテレビの情報を妻がときどき伝えてくれるが、私は本を読んで時間をやり過ごしていた。スラヴォイ・ジジェクの『事件!』[2]を読み終えたばかりだったが、ラカン派のジジェクが歴史における〈事件〉をラカン流の精神分析を引き合いに出して論じている部分は少し面倒くさくて斜めに読み飛ばしていたのだが、正確に言えば、その部分の読み直しをしたのだ。
 本は丁寧に読むべきである。その部分に「未来は変えられる」ではなく「過去の事件は変えられる」と主張されていた。そうだ。歴史とはそういうものだ。過去に起きた事実は変えられないけれど、それがどんな〈事件〉であったかは未来が決めるのだ。

アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルへスは、カフカとその先行者たち(古代中国の作家からロバート・ブラウニングまで)との関係について的確にこう述べている。「カフカの特異性は、程度の差はあれ、これらの著作すべてに見られる。だがもしカフカが書かなかったら、われわれはそれに気づかないだろう。つまり、それは存在しなかっただろう。〔……〕すべての作家は先行者を創造する。彼の作品はわれわれの過去の概念を変え、同様に未来を変える」(ボルヘス『続審問』、中村健二訳、岩波文庫、二〇〇九、一九一~二頁)。 (pp. 151) 

 つまり、こうだ。今日この日から先の未来に向けて、誰かが(あるいは大勢が)行動を起こし、ある政治的な事実を生み出すだろう。その未来の事実が、この参院選の結果の歴史的〈事件〉性を決定する。
 沖縄と福島で自公政権を拒否しえたことが歴史の〈事件〉だったのか、東北、北海道の「辺境」で野党が82敗だったことが〈事件〉だったのか、それとも安倍政権が両院において3分の2の勢力を手に入れたことが歴史的〈事件〉だったのか。それは未来が決定するのだ。
 もう少し七面倒くさい哲学風にこのようにも述べている。

 しかし、この過去そのものを()構成する身ぶりの遡及性はどうだろうか。本物の行為とは何かについての最も簡潔な定義はこうだ――われわれは日常的な活動においては、自分のアイデンティティの(ヴァーチャルで幻想的な)座標に従っているだけだが、本来の行為は、現実の運動がヴァーチャルなものそれ自体、つまりその担い手の存在の「超越的な」座標を(遡及的に)変えるという逆説である。フロイトに従えば、それは世界の現実性を変えるだけでなく、「その地下をも動かす」。われわれはいわば反射的に、「条件を、それが条件であった所与の物に戻す」。純粋な過去はわれわれの行為の超越的条件であるが、われわれの行為は新たな現実を生み出すだけでなく、遡及的にこの条件それ自体を変える。弁証法的発展の中で事物は「それ自体になる」というヘーゲルの言葉はそのように解釈すべきだ。たんに時間的展開が、あらかじめ存在した前存在的・無時間的な概念構造を現実化するにすぎないというのではない。この無時間的な概念構造それ自体が、偶然的な時間的決定の結果なのである。 (pp. 153-4)

 だからこそ、次のようなイラン革命の不思議を理解できようというものだ。

独裁政権がその最後の危機・崩壊を迎えようとしているとき、たいていは次のような二つの段階を辿る。実際の放下に先立って、不思議な分裂が起きる。突然、人びとはゲームが終わったことに気づく。彼らはもう恐れない。政権がその合法性を失っただけでなく、その権力行使そのものが狼狽した無能な反応に見えてくる。一九七九年のイラン革命の古典的な解説である『シャーの中のシャー』で、リュザルド・カプチンスキーはこの革命が起きた正確な瞬間を突き止めている。テヘランのある交差点で、ひとりでデモンストレーションをしていた男が、警官に立ち退けと怒鳴られたにもかかわらず、動こうとしなかったので、警官は黙って引き下がった。この話はほんの 一、二時間のうちにテヘラン全市に伝わり、その後数週間にわたって市街戦が続いたものの、すでに決着がついたことを誰もが知っていた (pp. 158-9)

 福島と沖縄における自公政権の拒絶がテヘランの「一人でデモンストレーションをしていた男」の拒絶と同等の〈事件〉となるかどうかは、私たちの行動の未来が決定するのだ。
 ジジェクを見直した。面白いけれども哲学的饒舌を持て余していたのだが、これからは歴史・政治・哲学をめぐる彼の論説をいくらかはわが身の行動と思考に重ね合わせて読むことできるかもしれない。そんなことを、投票日の日付が変わった頃に思っていた。 

[1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)。
[2]
スラヴォイ・ジジェク(鈴木晶訳)『事件! ――哲学とは何か』(河出書房新社、2015年)。


 

街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。