柚木ミサトさんのイラスト(FB : 多田篤毅さんの投稿、芳賀直さんのシェア写真から)
フェイスブックに出ていた「たのむぞ、おとな」という柚木ミサトさんの絵が、とてもいい。だらしない大人としては「がんばります、なんとか」と返事しそうになる。大人たちがだらしないから、地震の巣のような国に五十基以上の原発ができ、あげくの果てのメルトダウンで人が住めない国土を作ってしまった。
この絵を見つけたのは、ちょうど安冨歩さんの『幻影からの脱出―原発危機と東大話法を越えて』 (明石書店、2012年)を再読していた時だった。その本にこういう記述がある。
私が最も大切だと思うことは、子どもの利益を最大限に考える、ということです。すでに論じたようこ、子どもは、現在のところ全ての政治的過程から排除されています。その「子ども」を中心に考えることです。
なぜなら、現代日本社会で最も欠乏しているのが子どもであり、彼らを守り、その創造性を伸ばすことが、社会全体にとつて何よりも重要だからです。それ以上に、子どもこそは我々の社会の将来であり、子どもこそは我々の創造性の源です。[p. 215]
「こどもの利益を最大に考える」というのは、将来の社会構築のための選択肢の一つなどということではない。これなしの社会構築などはあり得ない、という必須の条件なのである。人類が処理できない放射能とそれを生みだす原発を残すことは、明らかに子どもたち、そのまた子どもたちにとって恐るべき不利益である。だから。安冨さんはこう結論する。
我々が既に作り出してしまった放射性廃棄物の量は、もはや頭を抱えるほどに多く、それ以上に、福島第一原発の処理は、一体、何十年かかるのか、そもそも可能なのか、全く見当がつかないのです。あの原発の処理責任は、まだ生まれていない人にまで背負わされています。これほどの罪を犯しておいて、未だに原発がこの列島に存在する、ということ自体が、私には信じられないことです。これを不道徳と言わずして、何を不道徳と言うのでしょうか。 [p. 222]
子どもには選挙権がない。自らが自らの利益を代表することができない。子どものように、この社会の中で自らの利益を主張し、社会に反映させる手段、システムをもたない人びとがいる。そのような人々を安冨歩さんは「非体制派」と名付ける。ある時は農民であったり、ある時は非正規雇用労働者であったりする。
現時点での最も象徴的な非体制派は、福島第1原発の激しい放射能汚染区域で作業する二次、三次の下請け労働者であろう。彼らは、過剰被爆を防ぐための線量計も与えられず、さらに「放射線作業手当」すらだまし取られている。
かつて、その非体制派としての農漁村民を「票」として取りこむことに成功したのが田中角栄で、その過程で原発立地が非体制派の農漁村に定められた、というのが安冨さんの説く原発をめぐる現代史である。
子どもと同じように非体制派の利益をも最大にする社会こそ、私たちが目指すべき社会であることはいうまでもない。
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