コロナ騒動で何処にも行けない毎日ですが、5月の23日に家内の友人が勧めてくれた
「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵を見に行きました。 それと一緒に
四国八十八ケ寺の80番から83番の札所も回って来ました。
龍の絵が飾られている神社は
「川東八幡神社」でそこに行く途中に
83番札所の一宮寺があり、そこに
お参りしました。
その後に「川東八幡神社」に行き
龍の絵をみてきました。
手の指先だけで書いたとはとても
思えない立派な絵でした。
次に82番札所の根来寺に行き、
81番札所の白峯寺から
80番札所の国分寺を回って
来ました。
第80番札所 白牛山 千手院 国分寺
本堂:鎌倉時代、旧講堂跡に再興された国の重要文化財。本尊はケヤキの一本造りの秘仏。
(ご開帳は60年に1度、次回は2040年を予定)
梵鐘:創建当時から残る四国最古の鐘。興味深い伝説が多いことでも有名。
国分寺の歴史・由来
奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が四国で唯一の国の特別史蹟。
本堂は、前面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。
また境内地の中心部には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、
現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。
また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、
現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。
寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩がの開基した讃岐の国の国分寺です。
その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、
「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代には西大寺の末寺であったとする記録があり、
その頃、現在の本堂が建てられ、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)大蛇がかぶっていたという伝説とともに
次のような実話があります。
江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町と引き換えに手に入れます。
ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。
しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた
一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へいぬ(帰りたい)」と泣くのです。
そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。
城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、
鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。
国分寺の見どころ
奈良時代の礎石が残る。(金堂跡・七重塔)広い境内には黒松の大木が樹立します。
本堂・梵鐘・礎石(金堂跡、七重塔跡)・大師堂(大師像が直に見える)
・弁財天(国分寺には、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」を祀る。)
第81番札所 綾松山 洞林院 白峯寺
干支守り本尊:高松藩主松平頼重公が造営した勅額門と頓証寺殿は装飾、
構造共に非常に手が込んでおり、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられ、
傑出した特色を持つ極めて貴重な建物であり、天皇、神、仏の三者を
一堂で祀る形式は全国的にも他に類を見ないものである。
勅額門と頓証寺殿:境内のお堂ごとに干支(えと)の守り本尊がそれぞれに祀られており、
本堂、大師堂をお参りした後に自身の干支の守り本尊が祀られている
お堂をお参りする参拝者が数多い。
白峯寺の歴史・由来
白峯寺は香川県中程にある霊峰の五色台には青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の五峯の山があり、
その最も西よりの白峯山にあります。参道からは瀬戸内海の雄大な景色が望める静かな古刹で、
弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。
弘仁6年、弘法大師は白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願しました。
後に智証大師は、瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁のご神託を受け、
瀬戸内海に現れた光明に耀き芳香薫ずる霊木で千手観音像を彫造し、
これを本尊として佛堂を創建したと伝えられます。
白峯という、まろやかな響きを持つこのお寺には、有名な物語が二つあります。
保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬまま
寂しくこの地で亡くなられ、御遺詔によって当山稚児嶽上に荼毘し、御陵が営まれました。
しかし都では異変が相次いだため、代々の天皇、公卿、武将も恐れ崇め奉り、
御府荘園を寄せて菩提を弔い、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して慰霊の誠を尽し、
特に第100代の後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺」の勅額を奉納し尊崇の意を表しました。
また仁安元年、上皇と親交のあった西行法師が慰霊の為に御廟に参詣した際に
上皇の霊と歌を詠み交わした話は上田秋成作『雨月物語』の伝説でも有名です。
また、境内には上皇の悲話を伝える玉章木(たまずさのき)もあります。
また白峯山には日本八天狗の一狗である心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられています。
突然の来客があり和尚の命により、小僧さんが豆腐を買いに出かけたところ、
突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。
そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り元の場所に立っていました。
これは、突然の買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと今なお語り継がれています。
住時は塔頭21ヶ坊を数え隆盛を極めていましたが、度々の雷火、兵火の災いに遇い、
現存するものは藩侯生駒家、松平家の再建によるものです。
白峯寺の見どころ
建造物では十三重石塔2基、山門(七棟門)、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂、美術品では「頓証寺」勅額が国の重要文化財で、その他多数の指定文化財を有しています。
境内には四国で唯一の天皇の墓所である白峯陵が隣接し、すべての干支の守り本尊が各お堂に祀られ、日本八天狗の一狗である白峯大権現(相模坊)が祀られています。
香川県の保存木に指定されている樅(モミ)の巨木をはじめ、年中を通して花々が楽しめ、特に春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が有名で多数の参拝者が県内外から訪れます。
参道には県内最大級の落差を誇り、幻の滝ともいわれる稚児の滝や、瀬戸内海を一望できる白峰展望台があります。
また、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸事、学問の神様として信仰されています。
第82番札所 青峰山 千手院 根香寺
五大尊像:納経所左。弘法大使の開基ゆかりの五大明王。不動明王、降三世夜王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王
牛鬼の像:山門近くの茂み内。伝説に出てくる牛鬼が鬼気迫る面持ちで建っています。
根香寺の歴史・由来
五色台の主峰、青峰山に佇ずむ、かつての巨刹。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峰に「花蔵院」を建立されました。後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置しました。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれます。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました。
寺には次のような伝説があります。昔、青峰山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいました。村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治してもらうことしました。しかし、高清が山へ入れど、なかなか牛鬼が現れません。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけました。すると21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのを発見しました。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。その角は今でも寺に保存されています。また牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれています。
根香寺の見どころ
五大尊像・牛鬼の像・万体観音(本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した約三万三千体の観音像が並んでいます。)
第83番札所 神毫山 大宝院 一宮寺
一宮寺の歴史・由来
創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇ります。
開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、
南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出。
和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。
また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの”聖観音” 聖観世音菩薩を彫造し、
伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。
この寺も同じく、天正の兵火により灰燼に帰しましたが、
中興の祖とされる宥勢大徳によって再興されました。
また江戸時代に高松藩主により田村神社の別当を解かれました。
神仏分離の200年も前の出来事です。
この寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があります。
これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがあります。
一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。
昔、近所で暮らす意地の悪いおタネばあさんは、「そんなことはない、試してみよう」
を頭に入れると、扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭は抜けなくなりました。
怖くなったおタネさんは、今までの悪事を謝りました。
すると頭はすっと抜けました。それからおタネさんは心を入れ替え、
親切になり、元気に長生きしたそうです。
一宮寺の見どころ
本堂・一宮御陵・地獄の釜(伝説の釜は、弘法大師が戒めのために作られたと伝えられます。)
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「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵が奉納されている
「川東八幡神社」の画像です。
「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵と奉納時の画像です。
濱田球鳳さんの指画を紹介したYouTubeです。
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以前の投稿分はリンクできなlくなりました。
濱田球鳳さんは亡くなられています。