1998年12月6日から11日まで 初めての海外旅行に行った時の記憶をたどってみます。
55歳で仕事も忙しい時に家内がダンスの友達2人と行く旅行に便乗しました。
海外旅行の経験が豊富で、英語もすごく達者なYさんが面倒を見てくれて
無事に楽しい旅行ができました。
たしか 10数人くらいの少ないメンバーで、ガイドさんがよく世話をしてくれたと思います。
当時はまだデジカメが無くて、APSカメラで撮影してプリントしたアルバムが7冊ありました。
その中なら選んだ分をスキャナーで画像にしたり、インターネットで取り込んだ画像を編集しました。
旅行に際して購入した本が残っていました。
今 見るとよくわかりますが、その時は読んでも
あまりわからなかったと思います。
アルバムの最初はサンフランシスコで、観光で一番の人気スポット ゴールデン・ゲート・ブリッジを
背景に写真を撮っていたのを編集しました。
ゴールデン・ゲート・ブリッジを造った人の
ことを 調べてみました。その時にガイド
さんから説明があったと思いますが、すご
い人です。 「20年と2億の言葉で説得。
橋に賭けた男の夢」 金門橋物語
SF最大の名所、ゴールデン・ゲート・ブリ
ッジ。特に夏、霧に包まれて浮かび上がる
姿は、SFの代表シーンとして世界中の人々
の頭に焼きついている。しかし世界屈指の
橋も、この男がいなかったら実現しなかっ
たことだろう。その男はシカゴ生まれの
エンジニア、ジョセフ・ストラウス。
1920~30年代の長い間・ゴールデン・ゲー
ト(金門)海峡に橋を架ける夢を語り、説得し
続け、遂に実際に造り、その後まもなく死
んでしまった。
彼が生涯に手がけた橋は約400。まさに橋ロ
マンの男と呼ぷにふさわしい人だった。
周囲の説得にこんなに長くかかったのは、
まずフェリー会社から猛反対が巻き起こ
り、次いで市民から、景観や地震に対ずる
不安の声が上がったからだ。
ようやく、周辺の6つの郡の住民投票によって、建設資金を集めるために公債を発行ずることが決まったが
大恐慌時代のさなかで、債券を引き受ける金融機関はなかなか見つからなかった。
この危機を救ってくれたのが、バンク・オプ・アメリカの創業者である。
橋の工事は1933年1月5日着工、完成は1937年4目28日。オープニングには歩行者を渡ることにしたが、
なんと20万人もが押し寄せた。
そして翌日が車の渡りぞめ。「説得には20年と2億の言葉を費やして、
コンクリートとスチールをくっつけるには、たったの4年と3500万ドル」というのが、
彼の感想だったとか。
Googleマップのストリートビューで
取り込んだ 画像を編集しました。
「霧のサンフランシスコ」をCravin
g Explorerで ダウンロードし
た分をPicasaウェブアルバムに
登録しました。
(☆クリックするとリンクします。)
旅行の本をスキャナーで取り込んで
見ました。
サンフランシスコを舞台にした映画が
多くあると思って調べてみました。
YouTubeにヒッチコックの
「めまい」の予告編が あったのを
取り込んで Picasaウェブアルバ
ム に登録しました。
(☆クリックするとリンクします。)
出演者はジェームズ・スチュアートと
キム・ノヴァクです。
サンフランシスコのホテルはケーブルカーの乗り場の近くだったかと思います。夕食後に家内と二人で
山頂まで行って無事に帰って来れました。イタリア人のグループがケーブルカーの中で元気に歌っていた記憶です。
暗い写真ですが 一枚だけケーブルカーが写っているのがあり、POWELL & HYDE Sts. の文字が見えます。
インターネットで取り込んだケーブルカーの画像を Photocapeで編集しました。
サンフランシスコの観光スポットとしては「フィッシャーマンズ・ワーフ」があり、自由に散策して
ガイドさんから勧められた人気のお店でカニを茹でたのを買って食べたと思います。
私が撮ってあった風景写真と、お店の人と買っている家内たちの写真を編集しました。
左の画像は旅行の本のページを
スキャナーで撮って編集しました。
インターネットで調べたカニの画像が
下記の分です。
たしかレモンを絞ってかけて食べた記憶
です。