11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の四国八十八ケ寺の24番から26番の札所にお参りして、
午後からは香南市・南国市の25番から29番の札所にお参りして、宿毛市のホテルに泊まりました。
左の画像は11/20に行った
四国八十八ケ寺の24番から
29番の札所の地図です。
24番の最御崎寺がある室戸市
までは距離があり、小松島市
のコメダコーヒーでモーニング
を食べました。
25番の津照寺と26番の金剛頂寺
にお参りしてから 室戸市の
「駒季」というお店で昼食に
しました。
下の画像は四国88カ所24番最御崎寺・25番津照寺・26番金剛頂寺
・27番神峯寺・28番大日寺・29番国分寺です。
下の画像は四国88カ所 24番最御崎寺です。
第24番札所 室戸山 明星院 最御崎寺
最御崎寺の歴史・由来
「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。
黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。
そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、
藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。
延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。
この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り
虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。
虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。
嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、
戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。
当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。
往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。
室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、
最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。
南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。
最御崎寺の見どころ 国指定重要文化財・御厨人窟(みくろど)
・明星石(大師が修行中に、星のように光を放ち、
毒龍の妨げを防いだという伝説の石。
下の画像は四国88カ所 25番津照寺です。
第25番札所 宝珠山 真言院 津照寺
津照寺の歴史・由来
室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、
通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。
弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に
似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。
はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称して七町余の地高を有しその後、
山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も
全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めておりましたが、
明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺とされました。
荒廃にまかすこと約十数年明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったのでありますが
寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなく、只本堂が地蔵堂としてのこり御殿と申された
庫裏の一角が当時小学校として残っておりました。
現在、小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築されたものです。
【楫取地蔵の由来】御本尊延命地蔵を楫取地蔵(かじとりじぞう)という由来を申しますと、
慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、
何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。
ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると
本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、
之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになりました。
この霊験記は、旧記南路史に明記されて居ります。
また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が
火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、
火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも、かじとりじぞうと呼ばれております。
津照寺の見どころ
境内・境内周辺の見所・本堂前より行当岬・室戸スカイライン・太平洋が望めます。
下の画像は四国88カ所 26番金剛頂寺です。
第26番札所 龍頭山 光明院 金剛頂寺
金剛頂寺の歴史・由来
室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。
硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。
その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、
室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。
朱印も「西寺」と捺される。当寺から4㎞のところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。
若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、
「行当」はその名残かもしれない。
縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、
本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。
創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、
婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。
次の嵯峨天皇(在位809〜23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、
現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823〜33)も勅願所として尊信し、
住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。
室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、
江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。
昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。
平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、
わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。