10/23に家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まりました。
翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。
左の画像は10/24に行った
四国八十八ケ寺の20番から
23番と12番の札所の地図です。
23番の薬王寺は42歳の厄除け
の時にお参りして以来で
日和佐のうみがめ博物館
は開園前で見れませんでした。
21番の太龍寺は標高618mの
太龍寺山の山頂近くにあり
平成4年に開通したロープ
ウエーに乗って行きます。
20番の鶴林寺は標高470mの
鷲が尾の山頂にあり
徳島県下唯一の三重塔は
県指定重要文化財である。
下の画像は四国88カ所20番雪渓寺・21番鶴林寺・22番平等寺・23番薬王寺です。
下の画像は四国88カ所18番焼山寺です。
第20番札所 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺
鶴林寺の歴史・由来
標高470メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、
遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。
樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、
寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。
寺伝によると延暦17年、桓武天皇の勅願により、弘法大師によって開創された。
大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて
老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。
この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、
その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。
また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、
山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、
また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、
七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。
阿波一帯の寺が 兵火に遭遇した「天正(1573・92)の兵火」にも、
山頂の難所にあるためか難を免れている。
「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。
鶴林寺の見どころ
波切り地蔵・地蔵菩薩立像・鶴林寺の室町時代の年号を刻んだ丁石が、
本堂から遍路道沿いに11基残っている。
1丁は約109メートル。徳島県最古の丁石。三重塔(県指定重要文化財)
第21番札所 舎心山 常住院 太龍寺
太龍寺の見どころ 舎心嶽・ロープウェイ
太龍寺の歴史・由来
「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。
樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。
弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、
100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、
大師が24歳のときの著作『三教指帰』に記されており、よく知られている。
虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、
大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしている。
縁起によると延暦12年、桓武天皇の勅願により堂塔が建立され、
弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。
山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。
だが、「天正(1573〜92)の兵火」からは逃れられなかった。
また、江戸時代になっても幾たびか罹災し、荒廃の途を余儀なくされているが、
その都度ときの藩主の保護をうけ再建されている。
仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興している。
四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの山岳寺院にロープウエーが
開通したのは平成4年である。
徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要していた。
1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、風格をそなえた古刹である。