ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

僕の老後への布石

2018-08-18 | 雑念
仕事ばっかりだった父親は引退して庭仕事やプール、友達との集まりなどに忙しい。

孫の話になった時に
「この人はもう誰かのために生きるという事を辞めたな」
と感じた。

仕事三昧のサラリーマンを経て疲れたのだろうか?生き甲斐としての社会への関わりを絶った。

老い先短いから孫の顔を見たい

これだけが彼の生き甲斐だ。

仕事ばかりの時代はキャッチボールをする時間も無くなっていき、僕は部活動にのめり込んだ。

もう会話も無くなって何を考えているのかも関心さえなくなった。

しかし今は僕を含め仕事で金を稼いで大学まで行かせてもらった恩義は忘れていないものの、老人と化したワガママな彼を徐々に尊敬できなくなっている。

そう考えると引退せずに老人になっても次世代のための本を書いたり講演をしたり、会長として会社の運営に関わり続ける人って素晴らしい。

もし日本が近代国家ではなく、縄文時代の暮らしをしていたら酋長レベル。部族の長として重要な決断をする立場である。

しかしサラリーマンで燃え尽きた社会への奉仕の心は、「あれほど働いたんだから、死に際はわがままさせてよ」という何だか人生を諦めているように見える。

彼は彼でそういう人生なので何の文句もないのだが、尊敬していた気持ちは徐々にゼロに近づいて同情に変わりつつある。

それを反面教師に僕が70歳を越えた時のことを考える。孫のいないその世界。

何かしら社会と繋がったまま死んでいきたいと考えている。

例えば「チャレンジってステキな在り方だよ」としみじみ若い人達に伝えているようなサンタクロースみたいな。

自分の趣味もあるけど、週1で学校に通って次世代へのヒントを伝え続けたい。

このブログは恐らく100年後も残っていると考えて、誰かがいつか読んでくれると信じていたりもする。

1人は好きだ。
でも社会と繋がっていないのは悲しい。

わがままで先の短い老人が未来を潰す選挙は目も当てられない。

死に際こそ腹を切って死んでいきたいものである。

その覚悟をどのように育てて行くかが今後の僕の課題だ。

まずはこの後、夏休みのキャンプイベントで小学生達にチャレンジの素晴らしさを伝えてからベトナムで大学生達を勇気付ける。

帰国後は僕自身のチャレンジを見つけて実行する。2018年はそのように過ごしたいと考えている。