今日は、『子どもの日』です。
私の子どもの頃のことです。
外で、遊ぶことが多かった訳ですが、時々、小学校が終わり、仲間と友達の家に遊
びに行きました。
そんな時、友達の母親がおやつを作ってくれました。
出してくれるのは、食パンの『パンの耳』を揚げて、砂糖をまぶしたものです。
ドーナッツのような味のおやつです。
昔は、『パンの耳』だけでもパン屋さんで、売っていたのでしょうか?
それとも、『パンの耳』がチョット硬かったので、切っておやつにしていたのでし
ょうか?
私の家では、食パンの耳も残さず食べていたのですが・・・・・
たぶん、おやつを買うお金が、もったいないからと言う理由で、『パンの耳』を使
ったと思います。
友達の家のおやつは、いつも、『パンの耳』でしたので、「いつもいつもパンの耳
だね~」「ビンボウ ビンボウ」と馬鹿にしたように仲間で囃し立て言っていまし
たが、実は、私の家も仲間の家もおやつを買う余裕もなく、もちろん共稼ぎで、お
やつを作ってくれる母親がいませんでしたので、おやつは無く、本当は、うらやま
しく、また、友達のお母さんが作ってくれた『パンの耳』がとても美味しかったこ
とを忘れられません。
みんな貧乏どうしの家でした。
友達の家は、子沢山で、小さい弟もいましたので、共稼ぎができなかったのだと思
います。
昔は、共稼ぎをしながら、内職をしていた家が多かったですね。
私の家でもやってました。
時々、手伝っていました。
八百屋さんから頼まれた、袋作りだったような気がします。
新聞を切って並べて、まとめて端に糊をハケで付け、上手に袋を作りました。
他にも、色々な内職がありました。
ハンダゴテを使った作業もしました。
子どもの頃、近所のこども達で、工事現場に潜入し、当時、赤(アカ)と呼んでい
た、銅線や真鋳を広い集め、時には、無理やり引っこ抜き、くず鉄の回収をしてい
るところに持っていき、グラム、いくらかで買ってもらい小遣いにしていました。
工事現場で赤い銅線を見たときは、目が輝いたような気がします。
どこどこの屑鉄屋が、いくらで買ってくれるとか、子どもたちの間で情報も回りま
した。
少しでも高いところに持っていき、買ってもらいました。
もう泥棒間違いなく泥棒です。
テレビも、どの家庭にあると言う、環境では、無かったですね!
夕方になると、縁側から、テレビのある、近所の家にかってに上がりこみ、隅っこ
で、最初は、小さくなってテレビを見ていました。
だんだんずうずうしくなり、しまいには、コタツに入り、みかんも食べていたよう
な気が・・・・・
そんな事は、当然でした。
初めて家にテレビが来たときの感動は、忘れられません。
テレビのブラウン管(画面)の前には、青い下敷きのようなもの、また、絨毯のよ
うな敷物を掛けていました。
テレビで見た、力道山やザ・デストロイヤーの試合は大騒ぎでした。
興奮して、心臓麻痺を起こす人もいる位盛り上がっていました。
力道山の空手チョップ、デストロイヤーの四の字固め、キラー・コワルスキーの耳
そぎのニードロップ、フリッツ・フォン・エリックのストマック・クロー、ブルー
ノサンマルチのカナディアンバックブリーカー、カール・ゴッチのジャーマンスー
プレックスホールド、などなど
TVでは、外国のTVドラマも多かったチャック・コナーズの『ライフルマン』、
『ララミー牧場』・・・・・
私もライフルマンになっていました。
初めて、「ハンバーガー」を食べた時の感動・・・・
これは、子どもと言うより、大きくなってからかな・・・・・
世の中にこんな美味しいものがとビックリしました。
夏は、父親のお下がりのような脇がダラーットした、ランニングで、過ごし、
仲間も自分を青ッ鼻をたらし、服のひじから先は、青ッ鼻を拭くので、テカテカ
に・・
服を新調してくれるのは、正月前のみ、セーター一枚を一年に一枚くらい。
私の場合を含めて、兄弟がいる場合は、下のものは、いつもお下がりでした。
今日は、子どもの日、
ブログに掲載した内容は、昭和30年代のことでした。
ハンバーガーは、40年代に入ってからだったか?・・・・・・・・
先日、行きつけの店で、『パンの耳』を揚げてくれました。
昔は、もっと薄い耳でしたが、
懐かしい味でした。
『子どもの日』なので、こんなブログになりました。