カナダ 隠居生活

今まで世界をさまよい、2010年50歳、カナダにケアギバー 留学し、就職。2015年次女と念願の永住権獲得。

転院先の養護老人病院

2017-11-07 18:46:41 | 日記
最初の病院は 急性期治療目的病院なので 90日以上はいれない。そこで 転院先をソシアルワーカーさんと探し始めた。
施設を見学し 医師やソシアルワーカーと経費や方針を話し合い、アクセスの良いところである2件目に見た病院に決めた。看取りまでお願いする病院だ。老人病院では 行われる処置、看護はさほど変わらないので、医師 スタッフの印象や施設の過ごしやすい感じ などが決めてとなった。
調子が良くなって来た母は 家に帰りたい 子供が待ってるとか、上の人に聞いたら帰って良いって、と言いはじめていたが そうだね ごはんたべれるようになったら、、などといって頷いて いるしかなかった。母の認知症は確かに悪化しており言葉が出にくい感じや ぼーっと空中を瞬きせずに見ていたりとか、娘時代に戻って いつも故郷に自分がいるようで 私達のことも 親類か兄妹くらいに思ってるのかもしれない。一度、調子の悪い時 急に手を上に挙げ何かつかもうとしてたか?どうした?と聞いたら仲良しだったの死んだ妹の名前を呼んだ。叔母さんに宜しく伝えてと言っておいた。
転院後は疲れたのか血中酸素濃度が低くなったり、熱が出たりしたが 2-3日で落ち着いて来た。しかし安楽を目標とする病院では同室の患者さんと同じく 昼間良く眠っているようになった。以前の病院はリハビリが朝昼 入り 車椅子に乗せることに成功してたが現在はなくなり 関節の拘縮予防程度になるという。アセスメントに来た リハビリの医師の簡単な診察で 辛い事はやらないという感じがよくわかった。食事が良い刺激になればと思ったが、まだまだアイスクリームすら口に入れられない。2ヶ月も食事してないと誤飲しやすいとのことであるが、なにせ当人が今朝ごはんたべたからおなかが空いてないって医師に食事を断っていたわ。ポートしてると空腹感がなくなるそうだ。

母がひと月入院した外科内科病院

2017-11-07 15:34:16 | 日記
昔に 働いたことのある病院が 母のシニアホームに近かったので たまたま受診し入院となった。分業化が進み 大勢のケアワーカー やリハビリのスタッフがいた。そして 若い!もう私の同僚は誰一人いない。数人の患者さんの中で見覚えのある人がいた。
ベットが 24時かん自動設定され 右上になったり左上になったりし床ずれ防止できるようになっている。基本 オートメーション化は職場がなくなるので嫌いだが これは 介護者の労力を補うのに良いなぁと思う。
ポート と呼ばれる 中心静脈栄養をほとんど寝たきりの老人がされていた。認知症が悪化し末期の廃用症候群となってる患者さんもいた。こうなると 自分すらも認知できない状況だそうで、痰が絡む音はするが体動 発語はほとんどない。
日本は長寿の国であるが このような患者さんが長寿を進めてるとしたら、何だが違う気がする。クオリティ オフ ライフ がないと思う。私だったらどうだろう。元気なうちに娘達やパートナーと 延命について 話しておかなきゃなぁ〜。
カナダの知り合いお年寄り達は 弁護士をとうして ウィリング 遺書を早いうちに作ってるようで、延命についても書かれてある。カナダでは個人病院が見当たらない、法律の規制でもあるのか?なので教会系や州立の綜合病院しかなく入院患者はサッサと退院させられてしまう。または余命が少なく治療の余地がない人は入院しないかもしれない。救急室に運ばれた段階で病院は早々に治療を終了し静かに自宅またはホスピス、老人ホームに移動するのかな。
思えば6年前に介護してた多発性硬化症の患者さんは 救急室に入って1週間も経たないうちにそこでなくなった。入院はできなかった。

カナダから再度 母の見舞いへ帰国

2017-11-07 01:08:10 | 日記
9月25日にカナダに戻った。その日 家の裏庭にカラスが3羽いて 何かやな感じもしてた。2日後母がまた高熱出して 悪化し 9月30日にいてもたってもいられず また日本に戻った。ありがたいことに パートナーはとても協力的で友人を介してサッサとチケットを手配してくれたよ。何度も帰ると 距離感がなくなり 隣町から来た気分でまた札幌に着いた。またレンタカー借りて友達の空き家を借りて今度はひと月の滞在予定だ。よく昼 慣れた道路を走り病院へ、気持ちは随分軽くなった。
突然の再帰国で家族には ビックリさせてしまったが 、疲れてる姉夫婦や 姪っ子のお手伝いができるなあと嬉しく思った。
母も徐々に回復し 長期療養病院へ移動となった。