今週は、この3冊。
■お菓子の家/カーリン・イェルハルドセン 2015.10.10
カーリン・イェルハルドセンの『お菓子の家』を読みました。
この本は、「ショーベリ警視が指揮をとるハンマルビー署シリーズ」の第一作目です。
私は人生の転換点に到達し、自分を卑しむのをやめた。くよくよ気に病むより、実行を選ぼう。瞑想の砂時計から砂が落ちきり、復讐の時が始まったのだ。
確か、何年か前に、「学生時代にいじめを受け、何年も経過した後、思い出したように復讐を実行した」という事件があった気がするのですが、この話は驚く勿れ、もっと昔、「幼稚園の時に受けたいじめ」に端を発するミステリーでした。
だが人のタイプというものは変わらない。彼の本質は昔のままで、ただ今ではずっと狡猾になり、手口に磨きがかかっただけなのだ。
「人間は変わらないものよ。権力と暴力で世界は支配されるの。程度は違ってもね」
「おそらく平凡でおだやかな人間になっただろうさ」ショーベリはそう思いたかった。
「辛い思いをする子供はたくさんいるが、不思議なもので結局たいていは人なみに育つんだ」
「訳者あとがき」の次の言葉は、暗示的だ。
ぼくは、シリーズ第三作を先に読んでいるのでよく分かる。
特定の捜査チームが探偵役を務めるこの種のシリーズでは、警官たちの私生活の描写が事件そのものより比重が大きかったりする。ショーベリ斑の面々も、みな個性的な人達だ。
そして各人が生きていく中で悩みや弱みをかかえている..........
東京創元社のウェブマガジン/Webミステリーズ
スウェーデン・ミステリの新しい才能が開花する
>>>>> ショーベリ警視シリーズ
『 お菓子の家/カーリン・イェルハルドセン/木村由利子訳/創元推理文庫 』
■最後の息子/吉田修一 2015.10.10
吉田修一さんの処女作『最後の息子』を読んだ。
この本は、三編の中編から構成されている青春の物語です。
「最後の息子/破片/Water」です。
吉田さんの本は、『怒り』以来、これが2冊目です。
『破片』は、抱腹絶倒、大きな声をあげて笑い転げた。
本当に楽しい本でした。
『Water』は、映画にでもなりそうな、正に爽やかな青春小説でした。
「Water」を読んでいて思ったのですが、「人がみな、こんなに優しかったら、生きる世間はどんなに住みやすくなることか」とため息が出た。
読後は、すがすがしく爽やかになれること間違いなし。
青春をこんな言葉で表現できるなんて、素晴らしい。
右近とは相変わらずに頻繁に会っていたが、彼の生活は子供の頃同様、どこか神秘的で、鍵穴から覗く部屋のような印象があった。
ぼくが笑ってしまったのは、こんなシーンです。
家に男だけしかいないせいか、大海の彼女にしろ、岳志の彼女にしろ、家に来る女の子たちは、誰もが気恥ずかしくなるほど丁重に扱われた。馬鹿丁寧というか、硝子細工でも扱うようにもてなされたのだ。そういった扱いを気持ち悪がる女の子もいたほどだ。男三人だけで暮らしている家で、いきなり風呂を勧められても、そう簡単に制服を脱ぐはずはない。
青春の日々には、永い人生と思っていたが、生きてみれば、一瞬の間、もし、ぼくもこんな言葉を言われたら、「何、訳の分からぬ事」と思ったのだろうか。
「坊主、今から十年後にお前が戻りたくなる場所は、きっとこのバスの中ぞ!ようく見回して覚えておけ。坊主たちは今、将来戻りたくなる場所におるとぞ」
と訳の分からぬことを言っていた。
『 最後の息子/吉田修一/文藝春秋 』
■東京湾景/吉田修一 2015.10.10
吉田修一さんの三冊目は『東京湾景』を読みました。
本の装幀が気に入ったので、恋愛小説ですが手に取りました。
これは、この小説の評価ではありません。
ぼくの個人的な独善と偏見です。
ぼくは、自分とぼくの家族が関わらない限り、「性と食」については基本タブーはないと考えています。
それでも、三角関係、浮気、不倫などが赤裸々な最近の恋愛小説は、余り好きではありません。
他人がやりまくるのをのぞき見したところで面白くも何ともない。
シンプルイズベストで生きたい。
古いかも知れませんが、男は、やはり「ハードボイルに生き抜くこと」だと、今でも堅く信じています。
さて、この小説ですが、少しだけ読むのに我慢しました。
亮介君も涼子さんも下半身が余り紳士でもないし、淑女でもありません。
まあ、今の若い人であれば標準的ですかね。
「溺れる」というのは、自分がなくなり、魂を吸い取られることだ。「溺れる」のと「のめりこむ」のは、まったく違う。「のめりこむ」というのは感覚の問題で、「溺れる」というのは魂の問題なのだ、と書かれてあった。
「二股……、二股かけてくれればいいじゃない!」
「どうして? とつぜん別れてくれなんて残酷なこと、平気で言えるくせに、どうして二股かけるくらいのことができないのよ!」
「……、私の友達にもいるけどさぁ、だらしない女って、本当に、筋金入りなんだから」
「でも、女としたら、なんかそっちのほうが幸せそうな気がする」
………あんなに愛してたのに、それでも終わったんだよ。人って何にでも飽きるんだよ。自分じゃどうしようもないんだよ。好きでいたいって思っているのに、心が勝手に、もう飽きたって言うんだよ。
『 東京湾景/吉田修一/新潮社 』
■お菓子の家/カーリン・イェルハルドセン 2015.10.10
カーリン・イェルハルドセンの『お菓子の家』を読みました。
この本は、「ショーベリ警視が指揮をとるハンマルビー署シリーズ」の第一作目です。
私は人生の転換点に到達し、自分を卑しむのをやめた。くよくよ気に病むより、実行を選ぼう。瞑想の砂時計から砂が落ちきり、復讐の時が始まったのだ。
確か、何年か前に、「学生時代にいじめを受け、何年も経過した後、思い出したように復讐を実行した」という事件があった気がするのですが、この話は驚く勿れ、もっと昔、「幼稚園の時に受けたいじめ」に端を発するミステリーでした。
だが人のタイプというものは変わらない。彼の本質は昔のままで、ただ今ではずっと狡猾になり、手口に磨きがかかっただけなのだ。
「人間は変わらないものよ。権力と暴力で世界は支配されるの。程度は違ってもね」
「おそらく平凡でおだやかな人間になっただろうさ」ショーベリはそう思いたかった。
「辛い思いをする子供はたくさんいるが、不思議なもので結局たいていは人なみに育つんだ」
「訳者あとがき」の次の言葉は、暗示的だ。
ぼくは、シリーズ第三作を先に読んでいるのでよく分かる。
特定の捜査チームが探偵役を務めるこの種のシリーズでは、警官たちの私生活の描写が事件そのものより比重が大きかったりする。ショーベリ斑の面々も、みな個性的な人達だ。
そして各人が生きていく中で悩みや弱みをかかえている..........
東京創元社のウェブマガジン/Webミステリーズ
スウェーデン・ミステリの新しい才能が開花する
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『 お菓子の家/カーリン・イェルハルドセン/木村由利子訳/創元推理文庫 』
■最後の息子/吉田修一 2015.10.10
吉田修一さんの処女作『最後の息子』を読んだ。
この本は、三編の中編から構成されている青春の物語です。
「最後の息子/破片/Water」です。
吉田さんの本は、『怒り』以来、これが2冊目です。
『破片』は、抱腹絶倒、大きな声をあげて笑い転げた。
本当に楽しい本でした。
『Water』は、映画にでもなりそうな、正に爽やかな青春小説でした。
「Water」を読んでいて思ったのですが、「人がみな、こんなに優しかったら、生きる世間はどんなに住みやすくなることか」とため息が出た。
読後は、すがすがしく爽やかになれること間違いなし。
青春をこんな言葉で表現できるなんて、素晴らしい。
右近とは相変わらずに頻繁に会っていたが、彼の生活は子供の頃同様、どこか神秘的で、鍵穴から覗く部屋のような印象があった。
ぼくが笑ってしまったのは、こんなシーンです。
家に男だけしかいないせいか、大海の彼女にしろ、岳志の彼女にしろ、家に来る女の子たちは、誰もが気恥ずかしくなるほど丁重に扱われた。馬鹿丁寧というか、硝子細工でも扱うようにもてなされたのだ。そういった扱いを気持ち悪がる女の子もいたほどだ。男三人だけで暮らしている家で、いきなり風呂を勧められても、そう簡単に制服を脱ぐはずはない。
青春の日々には、永い人生と思っていたが、生きてみれば、一瞬の間、もし、ぼくもこんな言葉を言われたら、「何、訳の分からぬ事」と思ったのだろうか。
「坊主、今から十年後にお前が戻りたくなる場所は、きっとこのバスの中ぞ!ようく見回して覚えておけ。坊主たちは今、将来戻りたくなる場所におるとぞ」
と訳の分からぬことを言っていた。
『 最後の息子/吉田修一/文藝春秋 』
■東京湾景/吉田修一 2015.10.10
吉田修一さんの三冊目は『東京湾景』を読みました。
本の装幀が気に入ったので、恋愛小説ですが手に取りました。
これは、この小説の評価ではありません。
ぼくの個人的な独善と偏見です。
ぼくは、自分とぼくの家族が関わらない限り、「性と食」については基本タブーはないと考えています。
それでも、三角関係、浮気、不倫などが赤裸々な最近の恋愛小説は、余り好きではありません。
他人がやりまくるのをのぞき見したところで面白くも何ともない。
シンプルイズベストで生きたい。
古いかも知れませんが、男は、やはり「ハードボイルに生き抜くこと」だと、今でも堅く信じています。
さて、この小説ですが、少しだけ読むのに我慢しました。
亮介君も涼子さんも下半身が余り紳士でもないし、淑女でもありません。
まあ、今の若い人であれば標準的ですかね。
「溺れる」というのは、自分がなくなり、魂を吸い取られることだ。「溺れる」のと「のめりこむ」のは、まったく違う。「のめりこむ」というのは感覚の問題で、「溺れる」というのは魂の問題なのだ、と書かれてあった。
「二股……、二股かけてくれればいいじゃない!」
「どうして? とつぜん別れてくれなんて残酷なこと、平気で言えるくせに、どうして二股かけるくらいのことができないのよ!」
「……、私の友達にもいるけどさぁ、だらしない女って、本当に、筋金入りなんだから」
「でも、女としたら、なんかそっちのほうが幸せそうな気がする」
………あんなに愛してたのに、それでも終わったんだよ。人って何にでも飽きるんだよ。自分じゃどうしようもないんだよ。好きでいたいって思っているのに、心が勝手に、もう飽きたって言うんだよ。
『 東京湾景/吉田修一/新潮社 』
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