早さ」と「徹底」が対策の鍵だった、スペインかぜの事例
【感染症、歴史の教訓】
社会的な対策のタイミングと内容と効果を詳しく検証、新型コロナへの対応を考える
RILEY D. CHAMPINE, NG STAFF.(※)
新型コロナウイルス感染症は依然として収まる気配がなく、日本でも再び緊急事態宣言が発出された。感染力が高い変異なども報告され、今後何が起きるかは不透明だ。これまでの対応は成功しているのか、それとも失敗なのか。そして、その理由はどこにあるのかを評価するのはまだ難しいだろう。 ギャラリー:腸チフスのメアリーから不遇の天才医師まで
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とはいえ、参考になる事例はある。近代史上最悪のパンデミックとなったインフルエンザ、いわゆる「スペインかぜ」だ。その大流行は1918年から2年ほど続いた。およそ1年におよぶ新型コロナウイルスへの対応をあらためて考えるべく、米国の各地で講じられたスペインかぜの感染防止対策とその結末を振り返ってみたい。
流行が目前だったにもかかわらず…
スペインかぜの症例が米国で最初に報告されたのは1918年3月、場所はカンザス州の陸軍基地だった。ここから第一波が始まったが、致死率は低く、夏までにいったん収束する。
ところが、第二波はまったく異なる様相を呈する。第二波からインフルエンザは米国全土に拡大し、50万人以上が犠牲となる。致死率は10倍に高まり、主に15歳から35歳の健康な若者が亡くなった。パンデミックが終わるまでに、世界では5000万人が亡くなったとされている。
その非常に危険なウイルスが米国で本格的に拡大し始めたのは1918年の秋だ。例えば、米国のフィラデルフィア市で最初の症例が確認されたのは1918年9月17日だった。 翌日、市はウイルスのまん延を防ぐため、人前で「咳をする」「つばを吐く」「鼻をかむ」などの行為をやめるキャンペーンを立ち上げる。ところがその11日後、市は戦勝パレードを決行し、20万人が参加した。感染症の流行は目前と予想していたにもかかわらず、だ。
その間に患者は増え続け、最初の症例からわずか2週間で、感染者は少なくとも2万人にのぼった。学校、教会、劇場、集会所などを閉鎖し、市がようやく「社会的距離戦略」を実施したのは10月3日のこと。しかし、その時点で市の医療はすでに崩壊していた。
フィラデルフィアで感染者が確認されてからほどなく、ミズーリ州セントルイス市でも10月3日に最初の感染が見つかった。こちらでは、市の対応は素早かった。2日後にはほとんどの集会を禁じ、患者の自宅隔離を決断する。その結果、感染の速度は下がり、セントルイスでの死亡率(単位人口あたりの死者数)はフィラデルフィアの半分以下となった。
第二波からの最初の半年間、すなわち感染が最も深刻だった時期において、ウイルスによる死亡者数がフィラデルフィアでは人口10万人当たり748人と推定されるのに対し、セントルイスでは358人だった。 (※)Markel H, Lipman HB, Navarro JA, et al. Nonpharmaceutical Interventions Implemented by US Cities During the 1918-1919 Influenza Pandemic. JAMA.による
いまも変わらない対応策、解除のタイミングは重要
この50年間で人々の生活は劇的に変化し、パンデミックの抑制はより難しくなっている。
グローバル化、都市化、大都市の人口密集などが進んだために、ウイルスが数時間で全土に広がりうる一方で、実際のところ、その対抗手段は以前とほとんど変わっていない。ワクチンのない伝染病に対する防御の第一線は、現在でも公衆衛生的な介入であり、具体的には学校、商店、飲食店の閉鎖、移動制限、社会的距離の確保の義務化、集会の禁止などだ。
もちろん、そのような命令に市民を無理に従わせるのは、また別の問題だ。1918年にはサンフランシスコの保健衛生官が、義務付けられていたマスクの着用を拒んだ市民3人を銃で撃った。アリゾナ州では、警察が感染予防用品を身に着けていない逮捕者に対して10ドルの罰金を課した。
とはいえ、最も成果を上げたのはやはり思い切った、かつ徹底的な対策だ。集会を固く禁じ、厳しく取り締まったセントルイス、サンフランシスコ、ミルウォーキー、カンザスシティーでは、結果的に感染率が30から50パーセントも低下した。また、最初に強制隔離と時差出勤を実施したニューヨーク市では、死亡率が東海岸で最も低かった。
2007年、学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に、市によって異なる対応が病気の蔓延にどのように影響したかを調べた2つの論文が発表されている。それによれば、致死率、時期、公衆衛生的介入について比較したところ、早い段階で予防措置を講じた市では、対策が遅れた、あるいはまったく講じられなかった市と比べて、死亡率が約50パーセントも低いことがわかった。
なかでも最も効果的だった措置は、学校、教会、劇場を同時に閉鎖し、集会を禁止することだった。そうすることでワクチンを開発する時間を稼ぎ、医療機関にかかる負担は減っていた。
論文はまた、別の重要な結論も導き出している。介入を緩和する時期が早すぎると、状況が逆戻りするということだ。
例えばセントルイス市では、死亡率の低下を受けて大胆にも集会の制限を解除した結果、2カ月もたたないうちに集団発生が始まり、新たな症例が相次いだ。介入を継続した市は、セントルイス市などで見られたような2回目の死亡率のピークが見られなかった。
1918年のインフルエンザにおいて、死亡率の急上昇を防ぐ鍵は「社会的距離」戦略であったと同論文は評価する。約100年を経たいま、新型コロナウイルスとの闘いでも、「密」の回避を含めて同じことが当てはまる可能性は高い。
若者の致死率が高かったのはなぜなのか
1918年、ワシントンD.C.のウォルター・リード病院でインフルエンザ患者の脈を取る看護婦。(Photograph by Harris & Ewing Inc. /Corbis)
先に述べたように、スペインかぜで主に犠牲となった人々は健康な若い大人たちだった。これは医学史上、大きな謎の一つとされている。
この謎について、2014年に学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に興味深い研究結果が発表された。1889年以前に生まれた高齢者は、ある程度の免疫を備えていたおかげで、死亡率が低かったというものだ。
この研究に携わった科学者らは、スペインかぜのウイルスの型がどう進化したかに着目した。1830年まで遡り、優勢なインフルエンザ型の移り変わりを明らかにしたところ、1889年にスペインかぜとは別型の通称アジアかぜ(ロシアかぜとも)が世界中で流行したことで、当時の子どもたちがスペインかぜに似たH1N1型を経験していないことに気づいた。つまり彼らはスペインかぜに対する免疫を獲得していなかったのだ。そして、1900年以降にはまたスペインかぜに似たH1亜型が流行し、それ以降に生まれた子どもたちには部分的な免疫ができたという。
「史上最悪のインフルエンザのパンデミックで罹患者が最も多かった高齢者は、基本的にほとんどが生き残った」と、研究を主導した米アリゾナ大学の生物学者マイケル・ウォロビー氏は述べる。一方で、18~29歳の年齢層では大量の死者が出て、罹患者が200人に1人の割合で亡くなった。
子どものときにウイルスに接しなかった世代の大人たちの死亡率が高かったというこの発見は、将来のパンデミックの予防や、ワクチンの接種法に役立てられる可能性がある。現在のように流行が予想されるウイルスに対してワクチンを接種するのではなく、子どもの頃に免疫を獲得できなかった株に対してワクチン接種を行う手もあるのかもしれない。
「有益な歴史的データという宝の山を現在の行動に生かす取り組みは、ようやく始まったばかりです」と、2007年のスペインかぜの論文でデータの分析を行った米コロンビア大学の伝染病疫学者、スティーブン・S・モース氏は言う。「1918年の教訓を正しく生かせば、同じ過ちを繰り返さないための一助になるかもしれません」 この記事はナショナル ジオグラフィック日本版とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。世界のニュースを独自の視点でお伝えします。