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六代目山口組《司忍 組長83歳の誕生日会》灰色の袴姿で宴会に参加 電撃昇格した有名幹部の胸元に光る「山口組のチェーン付き“プラチナ”」

2025年02月03日 23時03分32秒 | 社会のことなど






《司忍組長83歳の誕生日会に密着》灰色の袴姿で宴会に参加 電撃昇格した有名幹部の胸元に光る「山口組のチェーン付き“プラチナ”」
1/31(金) 7:13配信



NEWSポストセブン
1月25日で83歳を迎えた司忍組長(撮影:浅沼敦)


 1月25日、六代目山口組の司忍組長が83歳の誕生日を迎えた。愛知県の傘下組織事務所にて行なわれた誕生日会にNEWSポストセブンは密着した──。【前後編の前編】


【独占写真】顔を赤くして上機嫌の司組長83歳 高山若頭も笑顔を見せる 執行部だけがつけられる「チェーン付きの山口組代紋」


「もともと神戸市にある総本部で行なっていたのですが、六代目山口組が『特定抗争指定暴力団』の指定を受けたことにより事務所への立ち入りが制限されました。2023年から警戒区域外にある傘下組織事務所を使うようになりました。


 以前は司組長の誕生日会と同時に新年会も開催していて、友好・親戚団体も招いていたが、コロナ禍や『特定抗争指定』などの影響もあり、数年前から誕生日会だけを行なっている。ただ、全国から直参組長が駆けつけるので、警察やマスコミが高い関心を寄せていることには変わりはありません」(実話誌記者)


 13時30分過ぎ、取材班が会場前に到着すると、すでに愛知県警の組織犯罪対策課の警官が目を光らせていた。14時ごろに若頭補佐の極粋会・山下昇会長を乗せたと見られる車両が到着すると下ろされていた会場のシャッターが上がる。敷地内にナンバー2である高山清司若頭の乗用車が確認できたので、執行部(一般的に若頭、舎弟頭、本部長、若頭補佐らを指す)は顔を揃えていたと推測される。


「ヤクザは時間厳守が基本ですが、なかでも司組長の誕生日会に遅刻するのは絶対厳禁だと言われています。そのため前日入りする遠方の組長もいる」(同前)


 その後、直参組長を乗せたと見られる高級車が何台か到着したが、警察対策か、ガレージを下げ、乗員が外から見えないようにしていた。


 14時50分になると、大量の花束が搬入される。司組長、高山若頭の出身母体である弘道会の野内正博若頭がせわしなく動いている様子が確認され、昨年12月末の餅つき同様現場指揮を担っていたと見受けられる。


 その後、到着した4台の車両の車両窓には内側に黒幕が張られていて中を確認することはできなかった。


「警察対策だと思われます。分裂抗争も今夏で丸10年に突入し、長期化しているが、今年1月19日には神戸山口組の井上邦雄組長宅に、六代目山口組系元組員が火炎瓶を投げ込む事件が発生するなど、予断を許さない状況です。


 警察としても幹部陣から情報を得るために事情聴取、逮捕などの口実を探っている。2022年末の餅つきではプロパンガスの運搬方法をめぐって事務局長の篠原重則・若林組組長ら5人を逮捕しています。こうした背景もあり、山口組側も警戒しているのでしょう」

83歳を迎えた司組長が会場入り
 16時30分頃、「あと10分で到着です」の声が響くと現場に緊張が走る。シャッターが上がると高山若頭をはじめとしたスーツ姿の最高幹部、直参組長がズラリと姿を現す。ここで注目を集めていたのが山健組の中田浩司組長だった。中田組長は2019年に起きた銃撃事件で殺人未遂などの罪に問われていたが、昨年10月に神戸地裁が無罪判決を下したことで話題を呼んだ人物でもある。


「誕生日会の前日24日に、組織内で人事が行なわれ、中田組長が若頭補佐に昇格したという情報が流れた。直参組長は“プラチナ”と言われる山口組の代紋バッジをつけているが、執行部入りすると代紋バッジにチェーンがつく。実際、中田組長の胸元にはチェーンつきの代紋バッジが確認されたので、執行部入りしたと見ていいだろう」(警察関係者)


 16時39分頃、 司組長を乗せた高級セダンが到着。その前後には前後に護衛の車を従えていた。若頭補佐の竹内照明・弘道会会長がドアを開けると、直参組長らは一斉に「お疲れ様です」の声を出して司組長を出迎えた。この日の司組長の服装は灰色の袴姿で、警察、メディアが一斉にシャッターを切る。


 白い足袋に下駄を履いた司組長は意にも介さない様子で、軽い足取りで会場入りしたのだった。


(後編に続く)

司忍 - Wikipedia 

司 忍(つかさ しのぶ[1])こと篠田 建市[2](しのだ けんいち[3]、1942年〈昭和17年〉1月25日[4] - )は、日本のヤクザ。特定抗争指定暴力団・六代目山口組組長。


渡世名「司忍」の由来は「耐え忍んで司る」から[5](※諸説有り)。


来歴
生い立ち
1942年(昭和17年)、大分県大分市生まれ。大分県立水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)を卒業後、地元の大手水産会社に就職。その後、大阪を経て名古屋に出て、1962年(昭和37年)に三代目山口組系鈴木組内弘田組に入った。中京地区の抗争では武闘派として活動し、弘田組最高幹部を務めた。後に自らの組織として司興業を旗揚げしている。


弘田組時代
昭和40年代頃には、愛知県下に山口組系以外にも多くの暴力団組織があり、弘田組は三代目山口組の直参組織ではあったが一地方組織にすぎず、他組織と衝突を繰り返しながら地盤を築いていった。弘田組内で副組長や若頭を歴任し抗争でも陣頭指揮を執っていたのが司であった。


1981年(昭和56年)7月23日、三代目山口組組長・田岡一雄が死去する。弘田組組長・弘田武志は、田岡の後継者とされる山本健一と関係が近く、山本が四代目を継承すれば山口組に参加するはずだったが、山本も1982年(昭和57年)2月4日に病死。1984年(昭和59年)に四代目組長の座を巡り竹中正久と山本広が対立し、弘田は山本広支持を表明したものの、司は「山口組に尽くすべき」と弘田を懸命に説得し、ついに弘田は一和会にも四代目山口組にも加わらず引退を決意した。後日、自身の引退報告と、司に杯を下ろすよう竹中四代目に申し出、竹中はそれを了承した。


弘道会時代
竹中正久を首領に据える四代目山口組が発足した1984年(昭和59年)6月、弘田の引退に際し弘田組の構成員らを伴い弘道会を結成、山口組直参に昇格した。元親分の弘田の一字と、その道を行く「道」の字から「弘道会」と命名したとされる。1989年(平成元年)5月、渡辺五代目体制の発足に伴い若頭補佐に就任し、ブロック制が導入されてからは中部ブロック長を兼任した。


1997年(平成9年)8月28日の宅見若頭射殺事件を受け、警察では「新頂上作戦」を開始し、同年11月に司を護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとする銃刀法違反容疑で指名手配した。翌年6月に司は逮捕・起訴され、1999年(平成11年)7月、10億円の保釈金で保釈された。


2001年(平成13年)3月に大阪地方裁判所で無罪判決を受けたものの、2004年(平成16年)2月24日、大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決を受け、上告。高裁判決後、再度、収監されたが、10億円の保釈金で即日保釈された。


山口組組長就任
2005年(平成17年)3月、弘道会の跡目を同会若頭・髙山清司に譲って二代目弘道会総裁に就任し、同時に弘田組組長をも名乗る。同年5月、五代目山口組若頭に就任し、7月に六代目山口組組長に就任した。


山口組六代目を継承すると、確実視された銃刀法違反裁判における実刑判決を念頭に、最高幹部人事にあたる「幹部」職創設、倉本組と小西一家の名跡復活から、國粹会を傘下に収める形での東京進出、五代目会津小鉄会会長との舎弟盃に代表される親戚団体との関係強化を数か月のうちに行った。


そして11月29日付けで上告が棄却され、懲役6年の実刑判決が確定。2005年12月5日に出頭し大阪拘置所に収監され、2006年2月に府中刑務所に移監された。


府中刑務所への収監
司の呼称番号は「5100」であったため、「後藤組みたいだな」などと言われた。府中刑務所の受刑者数は増加の一途で、定員3200人のところ、入りきらないため独居房を2人で使っていたが、司の独居房は舎房2階一番奥にあり特別扱いを受けていた。面会の時も担当の刑務官の他に、部長クラスの幹部が必ず付き添い、廊下で他の懲役囚とすれ違う際には、相手に右を向かせ停止させ、目を合わせることすら禁止されていた。


なお、配属先は暴力団員だけが配属される工場である「侍工場」ではなく、要養護の高齢者が働く軽作業の現場であった。他の受刑者には司の顔を知らない者も多くいたため、そうとは知らずに「あんた、どっから来たの?」などと普通に話しかける者もいた。運動時間には30分間走るのを日課としていた。また、司は囲碁が好きで、刑務所でもよく受刑者と碁を打っていた。刑務所では模範囚である一級(当時は累進処遇制度により受刑者を級分けし、累が上がるほど仮釈放を受けやすくなった)になり、仮釈放になる仮面接にかかったが一年近くもらえる仮釈放を断って満期で出所している[6]。


2009年11月、かつての親分だった弘田武志が死去。獄中の司に代わって髙山が名古屋での葬儀を取り仕切り、山口組の全直参及び友好関係にある全国の有力組織の最高幹部が参列するなど、組葬に準ずる扱いであった[7]。


出所後
2011年(平成23年)4月9日、未決勾留8か月・服役期間5年4か月で刑期満了となり府中刑務所を出所した[8][9][10]。同年9月に新聞社のインタビューに応え、暴力団排除条例について「異様な時代がきた」とするとともに警察当局を批判している[11]。


2012年(平成24年)の元旦未明、山口組総本部近くの兵庫縣神戸護國神社に、幹部組員らと共に参拝したことが報じられた[12]。また、2016年(平成28年)の元旦にも初詣で神戸護国神社を参拝した[13]。
















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