ホルマリンのマンネリ感

北海道在住、ホルマリンです。旅行、怪しい珍スポット訪問、廃墟潜入、道内ミステリー情報、昭和レトロなどなど…。

我路 円形校舎 (前編)

2016-05-30 02:22:20 | ホルマリン漬け北海道 トワイライトゾーン


みんなの 声が 聞こえる…。


最近ロクに更新できていない当ブログ。
久々に新記事がアップされていると思ったら、イキナリ現れたのが黒ずんだ廃墟の画像で思わずのけ反ってしまった事でしょう…。(^_^;)笑

怪しげな軍事施設か何かと見まがうこの建物、実は小学校の廃墟である。
美唄市の我路(がろ)地区の山中に眠る旧・沼東小学校(しょうとうしょうがっこう・昭和49年閉校)です。
その特徴的な形から「円形校舎」という名前で呼ばれており、皆さんのご想像通り道内有数の心霊スポットとして超有名な場所。私がココの写真を初めて見たのも、北海道の心霊スポットを紹介した小さな雑誌でした。
山中にポツンと佇むボロボロの校舎。ガラスは粉々に砕け、鉄骨が所々でむき出しに。
まず、小学校なのにどうして円形なの?この不気味な形は何!?ということで、「いかにも」な禍々しさ全開。
当時小学生だった私はこの写真に怯え、「この場所には絶対に行かない!!」と誓った場所なのでした。

あれから10数年。
まさか自分が廃墟マニアとなり、自らこの場所に探検に行くことになるとは…。(^_^;)
探検友達からお誘いがあったというか、自分からお誘いしたというか、そんな感じです(笑)。
仲間がいれば怖くない!!

5月2日(月)

GW真っ只中の午前11時、お友達のkiichiさんの車で美唄市・我路地区にやってきました!
結構な山中にあるこの場所、かつては炭鉱町として栄えていましたが、三菱美唄炭鉱の閉山(1972年)により人が消え、現在は所々に廃墟が残る寂しい場所です…。
「我路」って名前がもう幻影都市っぽくて最高だと思います(笑)。

探検準備中のkiichiさん

今回は珍しく仲間がいるので心強い限りです!!(^_^)
kiichiさんは筋金入りの冒険大好き野郎で、当ブログの「オタモイ潜入レポート」や「ママチャリ激走400キロ」の記事を読んで私にコンタクトを取ってくれた珍しい方なのです(*^_^*)。
社会人として働きながらも、常に刺激を求めて道内、いや日本中を駆け回っており、人生を思う存分楽しんでいるその姿は自分もぜひ見習いたいものがあります♪
彼の愛車(NBOXプラス)にはヘルメットから何まで、ちょっとしたサバイバルに必要な装備は全て完備で、もはや完璧な探検用マシーンと化していました(笑)。
荷物たくさん積めるし、フルフラットになって車中泊も快適♪」という事でこの車を選んだのだとか。

う~ん、自分もこんな素敵なマイカーが欲しいぞ。

円形校舎目指して移動開始!

どこから入るのかよく分からなかったのですが、とりあえず車を乗り捨てて森の中へ。葉っぱが無く木々が寂しいですが、春の陽気が気持ちいいです!(^-^)
kiichiさんは以前に肝試しで円形校舎へのアタックを試みたらしいのですが、真っ暗で場所がよく分からず、断念してしまったようです。
そんなお話も聞いていたので、かなり森の奥にあるものだと覚悟していたのですが、歩き始めてまだ数分…。


見えてきたぁ~!!★
沢の向こう側に、お目当ての廃墟が早くも現れました。
ずいぶんとあっけない登場に、2人して拍子抜け(笑)。


木々の中に、ブロック塀のような怪しげな遺構が見受けられます。ここに校門か何かがあったのでしょうか?
沢を渡れる場所はあるだろうか?と一瞬心配しましたが、程なくして朽ちた橋を発見。ボロボロのガードレールが付いていましたが、もしかして旧道か何かでしょうか。

校舎の手前には体育館の残骸が。



すっかり骨組みだけとなってしまった巨大な体育館。青空に向かって、何本もの細い木々が真っ直ぐに伸びる。なかなか幻想的な場所ですね…(*^_^*)。
ちなみに、かつて心霊番組のロケで有名霊能者がココを訪問した際、「この体育館に最もタチの悪いヤツらが溜まっている」と顔を引きつらせたという。
…そうですか。素敵な場所だと思うのですが。


それでは、いよいよお目当ての円形校舎へ。
木々に囲まれてポツンと佇む円い建物が、次第に大きくなってくる。



…なかなかの存在感ですね。
小学生の時に見た写真は、まさにこのアングルから撮られたものでした。
あの時は白黒の小さな写真ですら恐ろしくてちゃんと見られなかったのですが、今はさほど恐怖は感じません。
有名な廃墟をついに目の当たりにして、かなりワクワクしているところでしょうか。


旧・沼東小学校は、1947年に「盤之沢簡易教育所」を引き継ぐ形で開校。
こちらの円形校舎は1958年に建設されたもので、意外なことに当時は2棟あったという。
2つの校舎は連絡通路で繋がっており「めがね校舎」の愛称で親しまれ、全盛期の児童数は29学級・1570名。
やはり炭鉱町の人口はケタ違いだ。

昭和49(1974)年に閉校したというから、既に40年弱ここで眠り続けている廃墟という事になる。
それにしても、なぜ片方の校舎だけ取り壊されなかったのかが謎ですね。

校舎前には何故か廃車が…(汗)。

90年代の車(初代レガシィ)なので、そんなに古くはなさそう。なぜココに??
前方が木に当たって歪んでいたのですが、これは車が木に激突してそのまま絶命したパターンか、それとも木が成長してボンネットを歪ませたパターンか、果たしてどちらなのでしょう…?
ドアとトランクが意味ありげに開け放たれているのが、何やら事件のにおいがして不気味ですね…(^_^;)。

校舎周辺、盛大に水没していました…。

1階部分が水に浸かっているのは、この廃墟の定番らしいです(笑)。
周辺が湿地帯であるためなのでしょうが、今回は山から流れてくる雪解け水のせいで更にスゴいことに。心なしか、地盤が緩んで校舎全体が傾いているような気が…。

潜入できる場所を探し、2人で校舎を1周。
表玄関、裏玄関はドアの半分以上が水に浸かっているので完全に不可能。そもそも1階からの潜入は絶望的です(汗)。
そこで、2階へ上る階段の途中、つまり踊り場に設けられた窓を選び、残骸をよじ登って中へ入る事に。
都合よく格子のようなものが立てかけられていたので楽々上れたのですが、これは他の探索者のおかげでしょうか。
(↓躊躇せず廃墟に挑む私)

(kiichiさん撮影)


kiichiさんと共に無事に潜入成功。
そのまま階段を上って、最上階の3階へと向かいます。

ガランとした校内

他の方の探索レポートで何度か見ていたのですが、この廃墟は残留物がキレイに片付けられているのが残念なんですよね~。
無機質なコンクリートの空間しか無いので小学校時代の雰囲気は消えており、よって不気味さや恐怖感はほとんどありませんでした。



校舎の中央部・円形の廊下と螺旋階段

これまた小学校とは思えぬオシャレな構造ですね!
円形の校舎は当時としても非常に珍しく、そのメリットは日当たりの良さと建築資材の節約。廊下を中央に配置する事で建物の面積を小さくすることが可能となったのです。
しかしその反面、教室はバウムクーヘンを切ったような特異な形となるため、使い勝手は良くなかったという話も。



階段部分の天井には小さな穴がいくつも開けられており、やわらかな日差しが廊下全体に降り注ぐ。
廃墟の中にいることを忘れてしまうような、なんとも惚れ惚れする光景です。
何やら設計者のコダワリが感じられますね(*^_^*)。

美しい螺旋階段のおかげで恐さも完全に消え、ここが「心霊スポット」であることすら忘れかけていましたが、ふと前日の夜に妙な夢を見た事を思い出しました。

私は何もない真っ白な廊下に立っている。
ふと、廊下の向こう側に人が前転しながら横切るのが見えた。
顔は見えなかったが、服装からするとオバサンだろうか。

そんな事を考えていると、視界の隅でゴロンと動くものが。
ハッとして横を見ると、さっきのおばさんが再び前転しながら壁の影に消えた。

さっきは廊下の向こう側にいたのに。
瞬間移動している…。


詳しくはよく覚えていませんが、こんな感じの夢です。
…不気味だ(笑)。
果たして、この夢は何を意味しているのでしょうか。
探索中、あの前転オバサンに遭遇しないよう気を付けなければ…(^_^;)。


続く。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽幌炭鉱―追想― (後編)

2015-12-09 14:34:27 | ホルマリン漬け北海道 トワイライトゾーン






巨大な立坑の内部には、上層階へと続く細い階段が伸びていた。最上階には立派な巻き上げ機や機械類がほぼそのままの状態で放置されているらしいが、錆びた階段はあまりにも頼りなく、その支柱もボロボロで不安定だ。さすがにココを昇る勇気は出なかった…。


立坑内部の探索もそこそこにし、車で炭鉱のさらに奥へと移動する。いままで探索していたのは羽幌本鉱エリアだったが、これから向かうのは築別炭鉱。こちらにも炭鉱関連の各施設がそのまま取り残されているというのだ。
こちらの黒ずんだ建物は旧・北辰中学校の廃墟。屋根の下には年代物のトラクターや農機具が置かれてあったが、倉庫として使用されているのであろうか?



相変わらずひと気のない山道をしばらく進んでいくと、遠くに見えてきたのは巨大な円形のドーム。近くへ行ってみるとピンク色の校舎の廃墟と隣接しており、その正体は立派な体育館だという事が分かった。
これが羽幌炭鉱の繁栄を物語る巨大廃墟、「旧・太陽小学校」だ。

築別炭鉱の発展に伴い昭和15年に開校、最盛期の生徒数はなんと1000人超。昭和46年の築別炭鉱閉山に合わせて閉校したあとは宿泊施設として再利用された事もあったが、結局は閉鎖。現在は道内の廃墟好き、探検好きがたまに訪れるだけの静かな空間だ。



到る所に内部への入り口が開いているので、侵入は容易である…が、暗闇の中からいきなりヒグマの剥製がお出迎え。これは心臓に悪い。
宿泊施設の残骸だろうが…。こんな場所に置かれているのは探索者によるイタズラだろうか?



ガランとした内部には、その他にも到る所に動物たちの剥製が。空間の真ん中に堂々と居座っている様が不気味だ。有名な廃墟だからか、こちらは山奥にあるにもかかわらず荒らされた箇所が多い。
宿泊施設として活躍していた時期もあったため、学校廃墟にもかかわらず「浴場」と書かれた案内板があったりと、その雰囲気は独特である。




そして、この廃墟の醍醐味とも言われる円形の体育館へ。




巨大な空間が、全盛期の生徒数を物語っていた。
円形の骨組みは芸術的ですらあり、しばらく圧倒される。
相変わらず内部はガランとしていたが、なぜか学校用の回転ボウキがポツンと転がっていた。

「この体育館、思い出したわ…。」

巨大な天井を仰いでいた父が、突然そう言った。
「遠足で山の上まで行って、みんなで丸い体育館が『あっ、見えた!』ってね」
残念ながら中へ入った事は無かったようである。







築別炭鉱にも立派なホッパー(貯炭場)が残っていた。
国鉄羽幌線から分岐した炭鉱鉄道がここまで延びており、このホッパーから貨車に石炭を積んでいたのだ。
今では炭鉱鉄道はおろか、日本海側の動脈であった長大な羽幌線まで消えてしまった。炭鉱があった時代があまりにも遠い昔のように感じられる。





そして車は築別炭鉱の最深部へ。相当な山奥であり、道はこの先で通行止め。
分岐して初山別村のほうへ抜ける道はあるらしいが、こちらも冬期間の通行止めがまだ行われており、この時期は完全なる袋小路である。人家は無く、まわりにも誰も居ない。
そんな場所に映画館や消防署、発電所の煙突などの廃墟が残る光景はなかなか不気味であり、それと同時に物悲しい。
道の行き止まりにあったこの建物は「羽幌炭鉱鉄道病院」。炭鉱には何といっても病院が不可欠であった。
木造のためか年々崩壊が著しい。



残雪の向こうに見えるのは、黒ずんだ炭鉱アパート群。深い山奥にたたずむその光景は蜃気楼のようでもある。内部を探索すると新たな発見がありそうだ。
冬には深い雪の中に埋もれてしまうのだろう。どの建物も冬眠からようやく目覚めたといった感じだ。



山道を戻る途中、道路沿いから一匹のキツネが。
久々の訪問者に興味津々だったのだろうか、車で通り過ぎた後も名残惜しそうにこちらを眺めたままだった。

羽幌という町の繁栄と衰退。
父が住んでいた頃、町は最も勢いのあった時期であった。羽幌にはまだ鉄道が通っており、山の向こうには5000人以上が暮らす一大炭鉱町が存在し、1000人以上の生徒を持つ巨大な小学校があった。
その頃の羽幌町には確かに未来があった。

羽幌炭鉱―追想―
完。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽幌炭鉱―追想― (前編)

2015-12-05 03:57:03 | ホルマリン漬け北海道 トワイライトゾーン
(2012年5月訪問 未公開ネタ放出です!!)





助手席の窓から眺めた道北の海は、ずいぶんと寒々しく思えた。
札幌ではもう花が咲き始める頃だというのに、ここら一帯はまだ冬が終わった直後のようだった。


2012年5月、父と二人で旅に出た。
早朝に札幌を出発し、日本最北の地、稚内・宗谷岬を経由しながら海岸線を辿り、紋別方面へ。「道北ぐるり一周」と言っても過言ではない、一泊二日にしては壮大な旅計画である。留萌を過ぎ、苫前のあたりを走る頃にはすでに昼が近づいていた。
道中、「羽幌町」という小さな町へ立ち寄る。のどかな海沿いの田舎町といった風情だが、中心部は予想に反して活気があり、年季の入った住宅がポツポツあるだけの寂しい道を進んできた者にとっては何やら安心するものがある。こぢんまりとしたフェリーターミナルに立ち寄ってみると、こちらもこぢんまりとした定期船が、ディーゼル機関車のような音を出しながら停泊している。海の向こうの小さな離島、天売島・焼尻島へ向かう唯一の航路が、ここ羽幌町から発着しているのである。

何を隠そう、僕の父は天売島で生まれ、ここ羽幌町で育った。
「この神社だったかな、よくココで遊んでたんだよね」
「ここの角、友達の親が商店やってたんだけど…すっかり無くなってるな」
父がこの町を離れたのは中学生の頃。滝川市に引っ越してからは墓参り等で訪問していた時期もあったらしいが、僕が生まれて以来は一度も訪れていなかったという。となると、実に20年数年ぶりの訪問ということになる。先程から、町中を散策しながら僕にそんな事を話しているのだが、その口調はなぜか淡々としている。札幌という都市に生まれ、そして育った僕にとっては、羽幌町はやはり「のどかな田舎町」という印象でしかない。しかしその印象は、普段の生活で時折繰り出される、父の北海道弁まじりの喋り方を聞いてもあながち間違いではないだろう。



羽幌にはかつて、もう一つの顔があった。海とは反対側の、山を越えた向こう側。かつてこの地に、最盛期の年間出炭量が100万トンを超える、巨大な“ヤマ”があったのだ。
「羽幌炭鉱」。羽幌本鉱、築別鉱、上羽幌鉱と3つの地区からなっていた周辺一帯は1940(昭和15)年に開鉱、それと同時に瞬く間に鉱石運搬用の鉄道、最新鋭の立坑やぐら、選炭工場、数々の炭鉱アパートなどが建設され、ピーク時には一帯の人口が1万人を超していたという。
しかし、この巨大炭鉱も、石炭衰退という時代の変化には逆らえなかった。1970(昭和45)年に炭鉱が閉鎖されると、人々は立派な施設群をこの地に残したまま、消えた。現在でも、山中の一帯には数々の炭鉱施設が草木に埋もれながらも放置されたままだという。僕が「羽幌」という響きにどことなく物悲しさを感じるのは、この炭鉱史の存在が大きく影響している。

「僕が住んでた頃はまだ炭鉱はあったけど、そこまで行った事は無かったなー」
ハンドルを握る父の口調はやはり淡々としている。これから僕のわがままで炭鉱跡へ寄り道をする事になったのだが、先程から曲がりくねった細道が延々と続いており、予想以上の山奥である。市街地を離れてしばらく経つが、周辺の森には残雪も目立つようになってきた。
それらしき廃墟が一向に現れず、いささか心配になってきた所で、道路沿いにようやく廃墟群が姿を現した。





こちらは「ホッパー」とよばれる貯炭場である。
木々の向こうには高さ40メートルの立坑がそびえているのが見え、周辺に関連施設の廃墟もいくつか広がっているのが確認できる。気分の高揚を抑えるのに必死になりながらも、残雪の中に足を踏み入れた。





大きく穴が開いた建物は「選炭場」らしい。石炭を運ぶコンベアなどは撤去され、コンクリートの塊だけが取り残された。内部には残存物が意外と多く、会社名の入った木箱や木製の事務机までもが。


「ホォッ!!」「オオォォ!」という声にギョッとして振り向くと、道路沿いで待機していたはずの父が。手にはなぜか細長い木の枝が。
「熊がいるかもしれないから心配で来ちゃったよ。大声出していれば寄ってこないから。オォオオ!!」

…父には申し訳ないが、思わず噴き出してしまった。いざという時、その細い木の枝でどうヒグマに対抗しようというのか。





そして近づく巨大な立坑やぐら。炭坑のシンボルともいえるこの施設は、坑夫を地下坑道まで運ぶ昇降機とその巻き上げ機である。
この立坑やぐらは昭和40年に完成した比較的新しいもので、御覧のように設備全体がコンクリート壁に覆われた当時最新鋭のものであったという。
まだ雪の残るこの時期だからこそ全景を拝む事が出来るが、夏場はうっそうとした木々に包まれてしまい、接近は容易ではないという。





内部に足を踏み入れると予想以上に巨大な空間が広がっており、圧倒されてしまった。
簡単に訪れる事の出来ない山奥にあるということ、そして前途の理由で接近できる時期が限られているということ。これらのおかげで荒らされた跡もほとんどない。
赤い鉄骨の枠組みが、地下坑道へとつながっていた昇降機である。地下への入り口は埋められていた。




立坑内部の床はコンベアによる深い溝があったが、そこを注意深く乗り越えて奥へと進む。こちらは普通の小型エレベーターか。





こちらは施設の外へとつながる出坑口。暗い内部を覗いてみると年季の入った棚がズラリと並んでおり、なんと炭坑夫の名札まで残っている!出坑の際に各自の仕事道具を保管する場所だったのだろう。仕事を終えた男たちの息遣いが聞こえてきそうである。

通路は到る所から雪解け水が漏れており、床もビチョビチョ。これ以上進むのも気分が悪いので止めておいた。
この先には炭坑夫の汗を流す浴場が残っているらしく、ぜひ見てみたかったが…。


遠い昔の記憶……父は確かに覚えていた。
続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする