4日目 午前10時15分 ~島の歴史~
ヒマワリ畑のすぐ近くに、ぜひ立ち寄りたかった場所があった。
国指定史跡の「コート盛(先島諸島火番盛)」である。
琉球王国時代の17世紀中ごろに異国船の監視・通報のために建てられた遠見番所群のひとつ。
琉球石灰岩を渦巻き状に積み上げて造られており、有事の際はのろしを上げて他の島々へと伝えていたそうだ。
高さ4メートル、直径10メートルほどとそれほど大きくないが、この辺りは標高60メートルあるそうで、階段を上ってみると遮るものが無く、番所があったという海の向こうの西表島まで見渡すことができた。
自転車を漕いでものの5分ほどで、島の中央にある集落へと到着した。
石灰岩やサンゴの塀に囲まれた平屋の家々の他、小さな民宿などもある。人が少なく静かな時間が流れている。
日本最南端の波照間駐在所と、同じく日本最南端の波照間小中学校。
船で到着した時に港にスイフトのミニパトがいたが、まだパトロール中か。
小中学校は思ったよりも校舎が新しく立派だったが、4年ほど前に建て替えられた小中併設校舎なのだそうだ。なお全校児童生徒は50人ほど(2023年現在)。
小中学校の塀は児童生徒によるカラフルな絵で彩られていたが、青々とした空と海に浮かぶ波照間島の作品が印象深かった。
「平成5年度 卒業制作 平和学習記念」とある。偶然にも私の生まれた年だ。
「星になった子どもたち」という歌詞が雲のように描かれており
「ガタガタふるえるマラリアで 一人二人と星になる
くるしいよ さむいよお母さん 帰りたい 帰りたい 波照間へ」
などという言葉がある。
調べてみると、波照間島には第2次世界大戦中に「戦争マラリア」の悲しい歴史があった。
軍命で西表島南部へ強制疎開となった島民たちの間に、マラリアが大流行し死者が続出したのだ。
有病地であった西表での劣悪な生活環境によるもので、残った島民は沖縄戦の後に島へ戻ることができたものの、田畑が荒れ果て家畜が処分された島内では食料が尽き、そしてここでもマラリアが猛威を振るった。
結果、島民1590人のうち1587人がマラリアに感染し、当時の島民の3割である477人が死亡した。
波照間小中学校の前身である国民学校の児童も66人が死亡。
波照間を思いながら星になった子どもたち。
忘れてはならぬ歴史が歌い継がれているようだ。
小中学校のほぼ向かい、集落の中心部にある波照間郵便局はかなり新しいなと思ったら、昨年2023年7月末に建て替えられたばかりのようだ。
そして集落のはずれ、少し迷いながら到着したのは竹富町役場・波照間出張所。
2人しかいない小さな窓口で「日本最南端証明書」を購入した(500円)。島内の一部の土産物店でも扱っているそうだが、やはりこういった証明書は公的機関で入手したいという個人的なこだわり。
島内には食料品や生活物資を販売する共同売店が数店ある。
島民の生活リスムに合わせているのだろう、お昼すぎから午後3時ごろまで「休憩時間」の店舗もあるようだ。
店内のカップめんやお菓子などの値段を見てみたが、意外と本土のコンビニ価格と同じくらい。
地図に神社の表記があり、沖縄の神社とはどういうものか見てみたかったのだが、何やら雰囲気が違うぞというエリアの周囲に「立入禁止」の真っ赤なブロックがあった。
どうやら神を祀る「御嶽」や祭祀を行う聖域として禁足地とされているらしい。
波照間島にはこのような場所があちこちにあることから「神々の島」と呼ばれ、探索中は油断してはならない。
こちらも集落内のあちこちにある、島言葉による交通安全の手書き看板と島のマンホール。
看板は隣に訳が書いてあり「ウタマンドゥ トゥンジピコハン」は「あぶない 子どもの飛び出し注意」という意味らしい。
このほか「ヤマシヤマシ パリヨ~(ゆっくりゆっくり走ってね)」というものもあった。
午前11時、集落を抜け「日本最南端の碑」目指して島を南下する。
集落から外れるとほとんど畑と農道のようで、見晴らしがよく緑豊かな景色が続く。
平坦な道に沿って背の高いサトウキビ畑が広がっており、思わず「ざわわ……ざわわ……」などと口ずさむ。
立派に育ったサトウキビはちょうど今の時期の1月~3月にかけてが最盛期らしく、真っ黒に日焼けした島人たちが収穫作業をしている光景も見られた。
あと1~2か月来るのが遅かったら、全て刈り取られて少し寂しい風景だったかも。
次回、いよいよ南の果ての風景へ。
続く。
ヒマワリ畑のすぐ近くに、ぜひ立ち寄りたかった場所があった。
国指定史跡の「コート盛(先島諸島火番盛)」である。
琉球王国時代の17世紀中ごろに異国船の監視・通報のために建てられた遠見番所群のひとつ。
琉球石灰岩を渦巻き状に積み上げて造られており、有事の際はのろしを上げて他の島々へと伝えていたそうだ。
高さ4メートル、直径10メートルほどとそれほど大きくないが、この辺りは標高60メートルあるそうで、階段を上ってみると遮るものが無く、番所があったという海の向こうの西表島まで見渡すことができた。
自転車を漕いでものの5分ほどで、島の中央にある集落へと到着した。
石灰岩やサンゴの塀に囲まれた平屋の家々の他、小さな民宿などもある。人が少なく静かな時間が流れている。
日本最南端の波照間駐在所と、同じく日本最南端の波照間小中学校。
船で到着した時に港にスイフトのミニパトがいたが、まだパトロール中か。
小中学校は思ったよりも校舎が新しく立派だったが、4年ほど前に建て替えられた小中併設校舎なのだそうだ。なお全校児童生徒は50人ほど(2023年現在)。
小中学校の塀は児童生徒によるカラフルな絵で彩られていたが、青々とした空と海に浮かぶ波照間島の作品が印象深かった。
「平成5年度 卒業制作 平和学習記念」とある。偶然にも私の生まれた年だ。
「星になった子どもたち」という歌詞が雲のように描かれており
「ガタガタふるえるマラリアで 一人二人と星になる
くるしいよ さむいよお母さん 帰りたい 帰りたい 波照間へ」
などという言葉がある。
調べてみると、波照間島には第2次世界大戦中に「戦争マラリア」の悲しい歴史があった。
軍命で西表島南部へ強制疎開となった島民たちの間に、マラリアが大流行し死者が続出したのだ。
有病地であった西表での劣悪な生活環境によるもので、残った島民は沖縄戦の後に島へ戻ることができたものの、田畑が荒れ果て家畜が処分された島内では食料が尽き、そしてここでもマラリアが猛威を振るった。
結果、島民1590人のうち1587人がマラリアに感染し、当時の島民の3割である477人が死亡した。
波照間小中学校の前身である国民学校の児童も66人が死亡。
波照間を思いながら星になった子どもたち。
忘れてはならぬ歴史が歌い継がれているようだ。
小中学校のほぼ向かい、集落の中心部にある波照間郵便局はかなり新しいなと思ったら、昨年2023年7月末に建て替えられたばかりのようだ。
そして集落のはずれ、少し迷いながら到着したのは竹富町役場・波照間出張所。
2人しかいない小さな窓口で「日本最南端証明書」を購入した(500円)。島内の一部の土産物店でも扱っているそうだが、やはりこういった証明書は公的機関で入手したいという個人的なこだわり。
島内には食料品や生活物資を販売する共同売店が数店ある。
島民の生活リスムに合わせているのだろう、お昼すぎから午後3時ごろまで「休憩時間」の店舗もあるようだ。
店内のカップめんやお菓子などの値段を見てみたが、意外と本土のコンビニ価格と同じくらい。
地図に神社の表記があり、沖縄の神社とはどういうものか見てみたかったのだが、何やら雰囲気が違うぞというエリアの周囲に「立入禁止」の真っ赤なブロックがあった。
どうやら神を祀る「御嶽」や祭祀を行う聖域として禁足地とされているらしい。
波照間島にはこのような場所があちこちにあることから「神々の島」と呼ばれ、探索中は油断してはならない。
こちらも集落内のあちこちにある、島言葉による交通安全の手書き看板と島のマンホール。
看板は隣に訳が書いてあり「ウタマンドゥ トゥンジピコハン」は「あぶない 子どもの飛び出し注意」という意味らしい。
このほか「ヤマシヤマシ パリヨ~(ゆっくりゆっくり走ってね)」というものもあった。
午前11時、集落を抜け「日本最南端の碑」目指して島を南下する。
集落から外れるとほとんど畑と農道のようで、見晴らしがよく緑豊かな景色が続く。
平坦な道に沿って背の高いサトウキビ畑が広がっており、思わず「ざわわ……ざわわ……」などと口ずさむ。
立派に育ったサトウキビはちょうど今の時期の1月~3月にかけてが最盛期らしく、真っ黒に日焼けした島人たちが収穫作業をしている光景も見られた。
あと1~2か月来るのが遅かったら、全て刈り取られて少し寂しい風景だったかも。
次回、いよいよ南の果ての風景へ。
続く。