「鎌倉時代」の僧である「凝然」が書いた「三国仏法伝通縁起」に「道光」という「僧」についての事績が書かれています。
「三国仏法伝通縁起(下巻)」
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光賷(もたらす)来所以然者。…」
この記述には疑問とするべき点がいくつかあります。まず「天武天皇」の時代に「遣唐使」が送られたという記述が「書紀」にないことです。しかもここに書かれた「道光」という人物は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が「書紀」にあります。
「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 『定惠 定惠内大臣之長子也』 …」
これによれば彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことと思われ、「天武」の時代ではなかったと見られます。またそれを示すように上の「三国仏法伝通縁起(下巻)」中では「定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に入唐したとされている訳ですが、そのことも「白雉年間」の記事と合致しています。
しかし、「三国仏法伝通縁起(下巻)」によれば、「道光」が帰国後著した「一巻書」として「依四分律鈔撰録文」という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされていますから、この文章も「書紀」とは合致しないものです。
また「帰国」については「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、これは「天武七年」にあたり、もし彼の派遣が「天武」の治世期間のことであったとすると「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなります。しかし、これは当時の「仏教」の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、「書紀」に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉高等舩歸』 …。」
この「乙丑年」は「六六五年」であるとされ、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったと思われます。
このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、そのため「道光入唐。未詳何年。」としているわけです。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は「書紀」と整合しないことを知っていたものと思われます。
「書紀」で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが「孝徳紀」であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、「孝徳紀」の記録に気づいてなかったと云うことも有り得るかも知れませんが、知っていて「無視」したとも考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられるでしょう。これに注目した結果「孝徳紀」の「道光」について念頭から外したのかも知れません。(「別人」とでも考えたとも考えられます。)
しかし、実際には彼は「白雉年間」に派遣されたものであり、その時点の「倭国王」を「浄御原天皇」と呼称していることとなります。
ところで、「書紀」を見ると「浄御原」の宮号は「朱鳥」改元とリンクしていますから、このことは「朱鳥」という年号についても「七世紀半ば」に遡上する可能性を含んでいます。
「秋七月己亥朔…戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」(天武紀朱鳥元年(六八六年))
ただしこの文章は意味が通じていないことで有名です。「朱鳥」という改元とそれを「あかみとり」と訓読みすることと「宮号」が「飛鳥浄御原」と名付けられたことの間には何の関係もないように感じられます。これは何を意味するものでしょうか。
「三国仏法伝通縁起(下巻)」
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光賷(もたらす)来所以然者。…」
この記述には疑問とするべき点がいくつかあります。まず「天武天皇」の時代に「遣唐使」が送られたという記述が「書紀」にないことです。しかもここに書かれた「道光」という人物は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が「書紀」にあります。
「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 『定惠 定惠内大臣之長子也』 …」
これによれば彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことと思われ、「天武」の時代ではなかったと見られます。またそれを示すように上の「三国仏法伝通縁起(下巻)」中では「定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に入唐したとされている訳ですが、そのことも「白雉年間」の記事と合致しています。
しかし、「三国仏法伝通縁起(下巻)」によれば、「道光」が帰国後著した「一巻書」として「依四分律鈔撰録文」という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされていますから、この文章も「書紀」とは合致しないものです。
また「帰国」については「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、これは「天武七年」にあたり、もし彼の派遣が「天武」の治世期間のことであったとすると「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなります。しかし、これは当時の「仏教」の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、「書紀」に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。
「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉高等舩歸』 …。」
この「乙丑年」は「六六五年」であるとされ、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったと思われます。
このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、そのため「道光入唐。未詳何年。」としているわけです。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は「書紀」と整合しないことを知っていたものと思われます。
「書紀」で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが「孝徳紀」であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、「孝徳紀」の記録に気づいてなかったと云うことも有り得るかも知れませんが、知っていて「無視」したとも考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられるでしょう。これに注目した結果「孝徳紀」の「道光」について念頭から外したのかも知れません。(「別人」とでも考えたとも考えられます。)
しかし、実際には彼は「白雉年間」に派遣されたものであり、その時点の「倭国王」を「浄御原天皇」と呼称していることとなります。
ところで、「書紀」を見ると「浄御原」の宮号は「朱鳥」改元とリンクしていますから、このことは「朱鳥」という年号についても「七世紀半ば」に遡上する可能性を含んでいます。
「秋七月己亥朔…戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」(天武紀朱鳥元年(六八六年))
ただしこの文章は意味が通じていないことで有名です。「朱鳥」という改元とそれを「あかみとり」と訓読みすることと「宮号」が「飛鳥浄御原」と名付けられたことの間には何の関係もないように感じられます。これは何を意味するものでしょうか。