「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志』は「晋」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本書紀』(日本紀)が書かれた理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。それは『続日本紀』において「大宝」という年号が「建元」されたと書かれていることからもわかります。
「大寳元年三月…甲午。對馬嶋貢金。『建元』爲大寶元年。」(文武紀)
「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」であり、この「改元」の論理は「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して恭順の意志を示すために「ゼロ」から再スタートする意味で「改元」するものです。そして、そのような「天」の意志に従わないとした場合は「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下すものであり、このように「受命」を受けた場合は「建元」となります。
このようなことを考えると、「禅譲」は「天」の意志に沿っているといえ、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではないため(それは「天の意志」でもない)、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
たとえば『旧唐書』を見ると、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本書紀』という史書に使用されている「日本」とは「前王朝」の国号であり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。
「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が『日本書紀』であり『日本紀』であった、ということは「總持朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持朝」の時代であったという『旧唐書』や『新唐書』からの解析と整合することとなります。
時代は下がりますが中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあります。これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもので、その中の「外国編」の「日本」のところには以下のようにあります。
「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」
つまり、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのは「持統(總持)天皇」である、というわけです。この記述は上に述べた『旧唐書』に書かれた事を分析した結果と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。
また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥」年号使用中(天武から引き続き)とされています。そして「紀年」つまり年次を記すのに「朱鳥」という年号を使用するというわけです。
ただし、「国号変更」が「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは不可能といえるものであり、「禅譲」であるかないかを問わず「国号」変更は「新王朝」成立と深く関わる事象です。
「日本国」への国号変更が単に日の出るところに近いとか字が雅ではないからと言うようなある意味「些細」な理由で変更されるようなものではないことは常識的に考えても理解できるものでしょう。このことから「總持」の前代において「倭国王朝」にトラブルがあり、「總持」が新王朝として継承したと考えられます。これが「禅譲」であるかどうかは「改元」がどうかで判断できますが、「歴代建元考」では「朱鳥」を継続して用いるとされていますから、「禅譲」と推定できるでしょう。さらにそれに深く関係していると考えられるのが「大化」という年号の存在です。
『書紀』では「大化」は「改元」と書かれています。この「改元」という表記は上に述べたように「禅譲」という「王朝交替」を裏に含んでいることを示すと思われます。このことから、『書紀』の「大化改元」という主張は「七世紀半ば」に「旧王朝」から「新王朝」への「禅譲」が行われたという事を意味するものとも考えられますが、その際に「倭国」から「日本国」へ「国号」が変更されたとみることもできるでしょう。ただし、その場合「改元」された「年号」が「大化」であったかというと、『歴代建元考』が言うように「朱鳥」であったという可能性は否定できないと思われます。それは「倭国」から「日本国」への変更の理由として「雅」ではないと言うことが挙げられていることと、「朱鳥」という年号が、『書紀』によれば「あかみとり」という「訓読み」であるとされていることがつながっていると考えられるからです。
『新唐書』には以下のような記述があります。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」
この『新唐書』のこの部分は「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されているのが注目されます。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」と思われている)まで、「代」が進行していることとなります。
また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章中に、「後」という表現がされており、このような書き方は「年次」を表すそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などから切り離すための文言と考えられ、それはこの「後」以降の記事が「咸亨元年」のことではないことをしめしますが、それが「いつ」なのかは明確ではないものの「長安元年」記事の前に挿入されているわけですから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していることとなると思われ、それは「總持」段階であるらしいことが理解できます。
この『新唐書』に対する理解は『旧唐書』からも裏付けられます。
『旧唐書』においても、時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、それによれば「国名変更」についての情報は「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれているのが改めて注目されます。つまり『新唐書』においても『旧唐書』においてもいずれも、「長安年間」の事として記された「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が伝えられていたことが推定され、「日本国」への国号変更というものが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものではないという可能性が高いと推定します。
また『新唐書』や『旧唐書』には「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であり、倭国を併合した」などと各自が答えたとされます。
重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるでしょう。また各々の答えが一見そのニュアンスが微妙に異なっているかのように見えるのが注目されるところでもあります。その答えから「倭国」から「日本国」への遷り変わりを検出してみることとします。
この「遣唐使」達が述べた「変更理由」を考察すると、「『倭国』が自ら変更した」という証言からは、「名称変更」した「倭国」は「自分たち(「遣唐使」たち)の王朝」ではない、というニュアンスを感じます。つまり自分たちとは違う「倭国」というものがあって、それが「名称変更」したものを「私たち」が継承したと理解されるわけです。
また、「『日本国』は、名称変更した『倭国』を『併合』した」と言うわけですが、このことは自分達「日本国」の王朝が「すでに名称変更して『日本国』となっていた」「倭国」を併合した、という意味合いと理解されるものであり、さらに(ここが重要なところなのですが)、「『日本』は旧小国」という表現は、現在の「日本国」の中枢をになう勢力が「元々支配していた地域」というものは、現在の「日本国」の中心地域(「畿内」)ではあるが、それは本来は「倭国」の内包する「諸国」のひとつであったものであり、「大義名分」のある国ではなかった、と言う事を意味すると思われるのです。つまり「現在の」「畿内」は「倭国」が「倭国」として存在していた時代には「旧小国」でしかなかった地域である、と言っていると考えられるわけです。
以上のことは、「倭国」がその「首都」を移動したこと。移動した先が「旧小国」であった地域であること。移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと。その「日本国」は「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」されてしまったこと。「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること、等々を意味していると考えられます。
「併合」というような事態が発生するためには「倭国(日本国)」において「血筋」が絶えるような重大な事由が発生したと見るべきであり、そのため有力な諸国王の一つであった「近畿王権」に「大義名分」が移動するという事となったと推定できるでしょう。
つづいて「日本」という国号と「朱鳥」年号について考察します。