古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「小野毛人」の墓誌について(七)

2014年11月22日 | 古代史

 「皇祖大兄」と称される「押坂彦人大兄」が「阿毎多利思北孤」の投影ならば、その弟王と目されるのは「難波皇子」ではなかったかと推定したわけです。それは彼の「子供達」(「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」)の存在が高い重要性を持っていたらしいことが『書紀』から窺えるためです。

 例えば「栗隈王」は「筑紫大宰」という地位にありましたが、「壬申の乱」の際に「近江朝廷」からの「援軍」要請を拒否しています。このとき「彼」は「筑紫の城は「外敵」に対するものであって内乱には与しない」としていますから、この「大宰」時点で既に「軍事」に関する権能を有していたこととなるでしょう。また後には「兵政官長」をも兼務しています。この「兵政官長」は後の「兵部卿」に相当する役職であり、国内全体の「軍事部門」のトップとも言うべき存在です。

「(天武)五年(六七五年)三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」

 「栗隈王」はこの人事時点で既に「筑紫」における民生部門のトップと軍事部門のトップを兼ねていたわけですが、さらにここで「兵政官長」という国内全体の軍事部門のトップを兼ねるという相当強い権力を保有することとなったものです。
 またその時点は「新羅」から「王子」とされる「忠元」という人物一行が来倭した時期でもありますが、彼が引率してきたのは「大監」等軍事部門の責任者であったと見られ、ここで両国軍事トップによる会合が行われたものと考えられます。

「(天武)四年(六七五年)二月是月条」「新羅遣王子忠元。大監級飡金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」

 このことから、「栗隈王」と「忠元」とは同等の立場で会談に臨んでいたことが推定され、「忠元」が「新羅王」の「皇子」であり、また「新羅王」の代理であるわけですから、それに対応する「倭国側」も同様の布陣であったと考えると、この「栗隈王」が「倭国王」の代理であり、また「王子」(皇子)の位に相当する可能性が考えられることとなるでしょう。(でなければ「外交上の非礼」に当たる可能性さえあります。)

 また、「石川王」については「吉備惣領」であったという記事や「吉備大宰」であったという記事があります。

(『備前国風土記』揖保郡の条。)「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」

(天武紀)「天武八年(六七九年)己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 つまり「難波王」の子供達のうち(少なくとも)二人までが「大宰」となっているわけです。

 さらに「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。

「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」

「己丑。…是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先秦造熊令犢鼻。而乘馬馳之。俾唱於寺西營中曰。高市皇子自不破至。軍衆多從。爰『留守司高坂王』及興兵使者穗積臣百足等。據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫運兵於近江。時營中軍衆聞熊叺聲悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從乃擧高市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下。有人曰。下馬也。時百足下馬遲之。便取其襟以引墮。射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝。物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚『高坂王。稚狹王』而令從軍焉。」

 上に見たように「高坂王」は「留守司」とされているわけですが、通常「留守司」とは「天子」が行幸している間「京師」に残る、文字通り「留守」を預かる職掌です。しかも後の例から見ると、多くの場合「兵部卿」など「軍事関係」の重要人物がその任に当たっています。(危機管理という観点で考えると、当然とも言えますが)
 彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の「養老令」では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の「養老令」においても「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるとしていますから、「留守官」はそもそも「兵部省」と深い関係にあったことが判ります。

「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」

 上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」からの「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
 また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波皇子」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。

 また、この時「栗隈王」の身辺は彼の子息である二人の「王」が守護していました。(「三野王」(美奴王)と「武家王」)彼らについては詳細は書かれていないものの、既にこの段階で「成年」に達していたという可能性が高いと思料されます。(でなければ「護衛」の役は難しいでしょう)つまり、この時点で彼には成年に達するような子供が二人いることとなります。
 「栗隈王」が「筑紫」へ「近畿」から「派遣」されている人間であるとすると、彼の周囲に「成人」に達するような子供が一緒にいるというのは不思議ではないでしょうか。
 例えば後の「大伴旅人」は「筑紫大宰率」として赴任する際に、子供である「家持」と「書持」を「妻」である「大伴郎女」と共に「筑紫」へ同行していますが、それは子供がまだ幼かったからという事情があったというべきでしょう。しかし、彼ら「成人男子」の場合は別行動が基本であり、また彼等は既に「冠位」を持っていたという可能性もありますから、その場合は「父」と連動して「筑紫」へ派遣されたこととなりますが、それもまた他に例がなく、考えられないと思われます。
 つまり、この時の情景から考えて、彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、この「筑紫」という場所は彼の「本拠地」ともいうべきものであったと考えられることとなるでしょう。

 また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
 この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。それに対し「近江側」は「栗隈王」に対する使者に、「栗隈王」が「援軍」に対して断るようなら「殺す」ように指示しています。(吉備の「当麻臣広島」に対しても同様の指示を出しています)
 これらのことから「倭京」の「高坂王」や「筑紫」の「栗隈王」は、少なくとも元々「近江方」ではなかったということがわかります。彼らは「近江朝廷」からみて「利用」するに値する人物であり、兄弟であったと言うこととなるものと思われることとなります。
 「近江朝廷」側は、彼等のようなある種「高貴」で、また「権威」と「権力」を有している勢力を傘下に入れることで、他の勢力に対する「牽制」ともなると考えたものでしょう。当然、彼等を「正面切って「敵」とはしたくなかったものと考えられます。
 逆に言うと、「大海人」側からはそもそも「敵」とは見なされていないこととなり、また「栗隈王」達も「大海人」という人物を「敵」とは認識していなかったという可能性があるでしょう。(彼らは「元々親しかった」という意味の記事があります)そのことから、彼らないし彼等の「父」である「難波王」と「大海人」という人物についても「近しい」関係にあったことが想定されることとなります。
 
 また、「大宅王」については情報がなく消息不明ですが、その死去記事において「薨」という用語が使用されていますから、(下記の記事)「三位」以上の高位にあったことが推定できます。

「天武八年(六七九年)己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」

 ここでは「冠位」は書かれていないものの、「三位以上」でなければ使用されない「薨」の字が使用されていますから、(四位以下は「卒」で表記される)かなり有力な人物であったことが推定できます。
 『書紀』ではこの「薨」と「卒」の使い分けはかなり厳重に為されているように見えますが、唯一の例外が「栗隈王」であり、『書紀』では「四位」とされているのも関わらず「卒」ではなく「薨」の字で表記されています。これは「四位」という「官位」表記が「虚偽」であることを推定させるものであり、もっと高位の人物であったことを推定させるものです。(『続日本紀』には「従二位」であったという記事もありますが、それがどの時点で授けられたものかは不明です)

「天武五年(六七六年)六月。四位栗隈王得病薨。」

 これらのことから「難波王」の皇子達はいずれも「軍事関係」の「要職」に就いていたこととなり、「軍事・警察」に力を持つ一大勢力を形成していたこととなるでしょう。
 しかし、この時代は能力主義ではなく血縁が非常に重視された時代であったと思われます。しかしそうであれば、彼等の父とされる「難波皇子」という人物については、特に何か『書紀』内で特記すべき血統であるとは書かれておらず、重視されている形跡が見あたらないことと矛盾するといえます。
 「物部守屋」を滅ぼした「丁未の戦い」の中にその名が出てくる以外は全く記録に残っていないような人物の子達が、多くこのように高位にいると言うことははなはだ理解しにくいことであり、「不思議」というより「不審」であるといえるでしょう。

 彼らの主要な勢力である「軍事・警察」という力が彼らの「父」から継承したものと考えると、「難波皇子」の「兄」である「押坂彦人大兄」の持っていた勢力(「刑部」(押坂部)=「解部」)と重なることが推測できます。つまり「栗隈王」達の権威の源泉は「難波皇子」とその兄である「押坂彦人大兄」につながるものであると考えられ、このことから、この「難波皇子」が「兄弟統治」における「弟王」を指すものであり、この時点で「日の出以降」という時間帯を制していたのは「弟王」であったと思われますから、彼が「実質的」な「倭国王」である(と考えられていた)可能性があると思われることとなるでしょう。

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