「小野毛人朝臣墓誌」というものがあります。これは江戸時代に最初に発掘されたものでその後再度掘り出され現在は京都博物館に国宝として保存されています。(以下その銘文)
(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」
(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓 《営造歳次丁丑年十二月上旬即葬》」
この「小野毛人朝臣」の墓誌はその当時から注目されてきました。それは「毛人」という人物がその該当する時代の史料に現れないことと、それにもかかわらず「墓誌」の中では「高位」の官人であったことが記されていてそのギャップが不審とされていたのです。
彼はこの墓誌によれば「小野毛人朝臣」とされ、また「大錦上」という位を持っていたと書かれています。さらに、彼の「墓」が作られたのは(年号が使用されず)「丁丑年」とされており、これは通常「六七七年」とされています。
「大錦上」という「位階」は「六六四年」以降のものとされており、一見矛盾はありません。しかし『続日本紀』の記事では(「小野毛野」の死去記事の中で)「毛人」について「小錦中」と書かれており、これが「矛盾」と見えるわけです。
「(和銅)七年(七一四年)…夏四月辛未。中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。」
さらに、「朝臣」という姓については「小野氏」が「朝臣」の姓を授かったのは『書紀』では「天武十三年」とされており、これは通常「六八四年」とされていますから、「墓誌」の示す年次とも「矛盾」するといえるでしょう。
これらの点から通説では「墓誌」の完成を「六八四年」以降(六九〇年代など)に考えるわけですが、しかし「朝臣授与」の年次は『書紀』の記述範囲の中であり、それが『書紀』に記されていないことが不審であると同時に、「毛人」の子の「毛野」の死去の際の追贈として、その時期に「墓誌」が書かれたとするなら「墓誌」と『続日本紀』の記事で「位階」が合わないのはおかしいこととなるでしょう。「大錦上」という臣下として最高位の位階を「毛野」の死後追贈されたならば、それが『続日本紀』に反映していないはずはないからです。
つまり「墓誌」が「追贈」された際に改定されたという考え方にとってはこの位階の違いは「致命的」なのです。(同様の指摘は既に「古田氏」によって為されています(※))
しかも、そのような仮定はそもそも「恣意的」であり、「不自然」なのです。それは「墓誌」に「小野毛人朝臣之墓営造…即葬」つまり「墓」を「営造」してすぐに「葬った」とされていることと食い違うといえるからです。
通説のように「六八四年」以降にこの「墓誌」が作られたとするならば、それまでの「七年間」(あるいはもっと長期間)墓に「墓誌」がなかったこととなるという「不自然」があることとなります。また「墓誌」を改定したという考え方は『続日本紀』と合わないという問題が発生します。
さらに弱点と言えるのはこのような考え方が、「金石文」である「墓誌」の記述を優先させず、『書紀』及び『続日本紀』の記事のほうを正しいとみる立場にあります。このような考え方が「適切」なものではないのは、改めて述べるほどではないのですが、この墓誌の解析をされた方の「(古田氏を除く)全員」がそうとは考えていないようであることに驚かざるを得ません。
明言しますが、「墓誌」の記述を解析する場合、それが『書紀』や『続日本紀』と矛盾するならば、問題を抱えているのは決して「墓誌」ではなく『書紀』であり『続日本紀』の方です。つまり『書紀』の「朝臣」授与記事や『続日本紀』の「位階」記事の方にこそ問題があると考えるのが正しいのです。(同様の例は「長屋親王」と書かれた木簡と『続日本紀』の記事の「長屋王」表記の矛盾の理解においても現れていました。)
このような史料同士のプライオリティなどというものの原則をここであらためて言わなければならないのは情けないというべきですが、「金石文」や「木簡」のほうが優先するのであって、『書紀』や『続日本紀』の優先度は原則としてその後に列します。
「近畿王権一元論者」はたいていの場合「『書紀』絶対論者」でもあるようであり、さらに『続日本紀』については「立場」を超えて「絶対視」する人たちもまた多いと思われます。彼らは『書紀』や『続日本紀』に書いてあることと「木簡」や「金石文」が食い違う場合は『書紀』や『続日本紀』の側に立って考える者たちであり、「それは『書紀』などに書いてあることと違う」というクレームを投げつけたりすることを「平気」で行うものたちなのです。それを「おかしい」とは感じない精神構造となっているのであり、「度し難い」という言葉を呈せざるを得ないのが甚だ残念です。
「木簡」や「金石文」そのものやそれに基づいた研究結果などが『書紀』などと食い違うという場合、問題があるのは『書紀』の側であってその矛盾は『書紀』の解釈などの変更などによって解消するしかないと考えられる訳です。もちろんこれは「大原則」ですから、「木簡」が間違って書かれていたなどと言うことも視野に入れる必要はあるでしょうが、決してそれが「本線」となることはありません。
この場合「墓誌」の記述が正しいとすると、「六八四年」という「姓」の授号記事に問題があることとなりますから、実際にはそれをかなり遡上する時期に「姓」の授号が行われていたこととなるでしょう。これに関しては同じ年に行われた、いわゆる「八色の姓」についての疑いと共通していると言えるでしょう。(続く)