「春日皇子」の異母兄であり「敏達」の「太子」とされる「彦人大兄」については、『書紀』の「大化二年」に出された「皇太子使使奏請の条」では彼の「御名部」について述べられています。そこには「原注」と思しきものがあり、「皇祖大兄」とは「(押坂)彦人大兄」のこととされています。
「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。』及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」
つまり「御名部」とはこの場合「押坂彦人大兄」の名前を取り込んだ「部」(職掌集団)を言うこととなりますから、ここでは「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)を意味するものであり、これは通常「刑部(おさかべ)」と漢語表記されて、「警察」「検察」「裁判」のような職掌を行なう人達を意味していたものと考えられます。
ただし、この「刑部」については「警察・検察」に関係のない職掌であるとする意見もあります。(※1)それは「刑」に「入墨」という意味があることから、彼ら自身が「入れ墨」をしていたものであり、それが「名前」となっているとするのです。そして「刑部」の本来の職掌は「武器」(利器)の維持管理や製造などを行うものとするわけですが(「忍壁皇子」が「石上神宮」で神宝を磨いているのがそれを象徴しているとする)、「部」の名称は基本的に「職掌」を表すものであり、その「部」の「見かけ」に由来するものは他に見られません。
「刑」には「入墨」の意があるのですから、彼らの職掌は「罪人」などに「入墨」を施すという役割であったことが推定され、「警察・検察」機構の末端に位置する下級官吏であると考えるのがやはり妥当と思われます。
また「忍壁」という地に刑官が居た為に「刑部」を「オサカベ」という様に訓じたという説もあるようですが、これは話が逆であり、地名由来としてはそこに「刑官」がおり、その呼称が「オサカベ」であったため「忍壁」あるいは「刑部」という地名となったと考える方が普通でしょう。(その職掌の性格から「オサカベ」と呼ばれる地以外に「刑部」がいなかったとは考えられないからです。)
従来「押坂(忍坂)部」という「部」については、「允恭天皇」の皇后であった「忍坂大中姫命」と関連して考えられているようですが(彼女の名前にちなんで「刑部」が造られたとする記事がある)、そうではないことはこの「皇太子への下問の詔」で明らかであると思われます。
一般に「御名部」というのは天皇や皇后あるいは皇子などの「功業」を後世に伝えるために特定の「部民」に彼らに関する名前をつけたものであるとされ(※2)、この「刑部」が「警察・検察」という治安維持に関する組織の末端に位置するとした場合、そのような職掌に「押坂彦人大兄」の名前が付けられるというのは、そのような職掌が「押坂彦人大兄」の主な業績(功業)につながっていることを示すものです。
そもそも「部民」とは元々「」を拡大・拡張したものであり、多くの「部民」が「」の印である「入墨」(黥面)をしていたようです。
前に触れたように「黥面」は「犯罪者」に対して行われるものであり、「没」された証としての「」の表象でした。これはもともと「海人族」の風俗でしたが、「海人族」の没落に伴い「中国風」に「犯罪者」に対して行われるものとなったとみられます。
「履中紀」には「墨之江中津彦」の反乱に同調した「阿曇連」に対して「墨刑」を施したという記事があります。
「(履中)元年夏四月辛巳朔丁酉条」「召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。亦免從濱子野嶋海人等之罪。於倭蒋代屯倉。」
ここでは「兔死科墨」とされていますから、「死刑」と共に「墨刑」というものが当時存在していたことが判ります。つまり「刑罰」の一種として「墨刑」が存在していたと考えられるわけです。
また、「」とは元々「犯罪人」であり、その罪の軽重によっては「没」されて「」となる場合があり、その場合は「」の印として「入墨」をするというのが慣習ないしは規則としてあったことを示していると思われます。
さらに「刑罰」と「部民」に関連する例が「安閑紀」にあります。
「(安閑)元年(五三四年)閏十二月己卯朔壬午条」「…於是,大河内直味張,恐畏求悔,伏地汗流.啓大連曰:「愚蒙百姓,罪當萬死.伏願,毎郡以钁丁,春時五百丁,秋時五百丁,奉獻天皇,子孫不絶.籍此祈生,永為鑑戒.」別以狹井田六町,賂大伴大連.蓋三島竹村屯倉者,以河内縣部曲為田部之元,於是乎起.」
この末尾の部分では「大河内味張」への措置に関連して、「竹村屯倉」の「田部」に「河内縣」の「部曲」を充てるのはこれが始まりかと推測しており、それは「味張」に対して「籍此祈生,永為鑑戒」とされていますから、「永く鑑戒」とする(つまり子孫にそれを反映させる)としているわけです。その具体的な方法が子孫を「部曲」とするということであり、この「部曲」は「豪族」の私有民としての「部民」ですから、「味張」の犯した犯罪に応じ、彼の子孫に対して「部民」とすることが決められたものと思料されます。
この場合「黥面」が行われたかは不明ですが、「履中紀」の記事からは「死罪」に代えて「墨刑」が行われていますから、これに準じて考えると、「墨刑」が「味張」とその「宗族」に対して行われ、「没」されて「部民」となるべきこととされたらしいことが窺えます。
これらのことは「刑部」が「入れ墨」を入れる係であると同時に、自分たちも入れ墨をしていたという可能性があることを示しますが、上で述べたようにそれは「部民一般」に共通することである可能性が強く、「刑部」だけに限らないとすると、その「名称」の由来は「入墨」を入れる、という職掌に関連したものと考えざるを得ないものでしょう。
(※1)前之園亮一「刑部と王賜銘鉄剣と隅田八幡人物画像鏡」『東アジアの古代文化』一三七号二〇〇九年
(※2)和田英松『新訂官職要解』二〇〇四年
「八色の姓」については「天武十三年」(六八四年)に以下の記事があります。
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔条」「詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下萬姓。一曰眞人。二曰朝臣。三曰宿禰。四曰忌寸。五曰道師。六曰臣。七曰連。八曰稻置。」
しかし、「二〇〇九年」になって韓国の古代の「百済」の中枢部である「扶余」の遺跡から「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と書かれた「木簡」が出土しています。この遺跡の年代としては「七世紀中頃」と考えられていますし、そもそも「百済」は「六六〇年八月」に「滅亡」しますから、これ以前の遺跡と考えるのが妥当というものでしょう。
ここに書かれた「ナ尓波連公」というのは「難波連」のことと考えられますが、『書紀』には「難波連」という人物については、「天武十年」(六八一年)年正月に、「草香部吉士大形」に「難波連」という「姓」(かばね)を授けた、という記事があります。
「天武十年」(六八一年)「春正月(中略)丁丑。是日。親王。諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿。共置酒以賜樂。『則大山上草香部吉士大形授小錦下位。仍賜姓曰難波連。』」
この記事は不明な部分が多い記事ではあります。そもそも「賜姓」の理由が不明です。この「草香部吉士大形」に何らかの「功」があったものと考えられますが、『書紀』中には何も書かれていません。また、「賜姓」とありますが実際には「難波」という「氏」(うじ)も与えられているようです。「姓」は「連」部分だけをいうものであり「難波」というのは「氏族名」です。本来「氏」を新たに与える場合はすでに存在している「氏」名は避けるものです。でなければ「同族関係」が混乱するからです。
しかし、ここでは、「草香部氏」である「大形」を「難波氏」に変更しているわけですが、これが「昇格」を意味していると言う事から、「草香部氏」は「難波氏」に仕えるような「一支族」であったのかもしれません。
そして「吉士」に変え「連」を与えているわけですが、「吉士」が渡来系氏族に特有の「姓」であるところから考えて以前はあくまでも「外様」的扱いであったものが、それをより「倭国王権」中枢に近い立場(「譜代」的立場)に変更する、という「優遇策」を与えたものと思料します。
ただし、このことはあくまでも「大形」個人に関連することと考えられ、「難波」氏族全体として「連」に変わったということは意味しませんし、「草香部氏」が全て「難波氏」に変わったと言う事も意味しないと思われます。
しかし、明らかにこの「難波連」という「存在」は『書紀』による限り「六八一年」以前には存在しない「はず」のものであることは確かですから、その「存在しないはず」の「難波連」という名前が書かれた木簡が「六六〇年以前」と考えられる遺跡から出土したということは不審と云うべき事となるわけです。
この「賜姓記事」問題は「正木氏」により「書紀の三十四年遡上」問題として捉えられ「六四七年」の事実であったと推定されることとなり、この時点であれば「木簡」の記載と矛盾しないと論究されました。この「連」授与という記事はその後実施される「八色の姓」改制などや諸氏に対する「連」や「宿禰」という「姓」の授与記事と一連を成すものですから、この「難波連」賜姓記事の「記事移動」という考えが「合理的」であるなら、「小野氏」への「朝臣」賜姓ということも同様に遡上すると考えるべきと思料されます。
また「位階」の問題については「死去」した時点における「増階」であり「四階級特進」という(異例なことではありますが)栄誉を受けたものではなかったかと思われますが、そのことは「墓誌」を作る親族など彼の親しい関係者以外には伝達されなかったか、あるいはその情報がどこかで亡失したか(この場合は「王朝」の継続関係に問題(断絶など)があったと想定する場合です)により『続日本紀』にそれ以前の位階である「小錦中」が書かれたものと推察します。
つまり年代的には「墓誌」が先行しているのであり『書紀』と『続日本紀』はそれとは別個に(あるいはその墓誌の存在を知らずに)後で書かれたものと考えられる訳です。(墓誌は「埋納」されてしまいますからその存在が忘れられるあるいは広く知られないという性格があります。)
さらに「(飛鳥)浄御原治天下天皇」という表現がされていますが、これについては既に指摘しているように本来「七世紀半ば」という時期に在位していた倭国王に対する表記とみられると推察したわけであり、「丁丑年」(六七七年)という墓の作られた年次の直近で亡くなったこととなれば、活躍していた時期はもっと早い時期が想定されます。それは「飛鳥浄御原治天下天皇」という表記にも現れています。このような書き方は「現在の天皇」ではない場合に行われるものと思われ、「毛人」が亡くなる時点の「天皇」ではなく「刑部大卿」や「太政官」などを歴任した時点の「天皇」の名称であることが推察され、在位していた年代としては「丁丑年」をかなり遡上するという可能性も考えられるでしょう。(続く)