古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「小野毛人」の墓誌について(六)

2014年11月21日 | 古代史

 『書紀』で「皇祖大兄」という表記がされている「押坂彦人大兄皇子」について、その「御名部」とされた「押坂部=刑部」が本来「解部」であったことを指摘し、また『隋書俀国伝』に書かれた「刑法」(律)の施行の主体であったと推定したわけですが、それはその「律」を含む「律令」全体の施行が彼の手によると見るべきことを示し、彼という存在は、「天子」を標榜したと『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」「阿毎多利思北孤」と重なる人物であると推定できると思われます。

 その「阿毎多利思北孤」の最初の遣使(これは既に「隋書」では「開皇二十年」(六〇〇年)とされていますが、実際には「隋初」のことであったものと推定しました)では「天を以て兄とし日を以て弟とする」と語られており、これを「隋」の「高祖」(文帝)から「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされます。

「隋書俀国伝」「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。…」

 これは従来「兄弟統治」を表すと理解されています。確かにこれを単なる「観念的」なものと受け取るには、「天」と「日」、「兄」と「弟」というように「対称型」で語られ、「阿毎多利思北孤」単独で「統治」しているというようには受け取れない論理性を有しているようです。
 またすでに述べたように、この時点で「強い権力」が行使されるようになり、非常に多岐に亘る改革が行なわれたと推定される訳ですが、そのようなものが「一人」の改革者により行なわれたとは考えにくいと思われます。
 有力なブレーンを複数抱えなければこのような改革はおぼつかない訳であり、信頼に足る人物が傍で支えていたという可能性が高いでしょう。というより「共同」で事に当たっていたという可能性を考えてみるべきであり、「弟王」がいたという想定はあながち無理なことではありません。それが「夜明け前」と「日の出後」という「時間差」で分担しているというのが「リアル」な話かどうかは不明ですが、「双頭体制」ともいうべき権力構成であったと推定できるものであることは確かです。
 ここでいう「兄弟」のうち「兄」という存在はすでにみたように「皇祖大兄」と尊称される「押坂彦人大兄」であると考えるわけですが、このように「兄」に当たる人物が『書紀』の中に表されているとすると、「弟」に当たる人物も同様に『書紀』の中にいる(隠されている)可能性が高いと思われます。
 この「弟」が実際の兄弟であるとすると「阿毎多利思北孤」の投影ともいうべき「押坂彦人大兄皇子」の兄弟の中に候補を捜すこととなりますが、その場合「同母兄弟」はいませんが、「異母兄弟」であれば「三人」存在しています。それは「難波皇子」「春日皇子」「大派皇子」の三名です。(このうち「春日皇子」が「小野毛人」の祖父とされているわけです。)
 この三者の中で最年長と思われるのが「難波皇子」です。この「難波皇子」を含む彼ら兄弟は『書紀』にほとんど「動静」や「事績」が書かれていません。ところが、このようにいわば「存在の希薄」な彼らですが、それと反するように見えるのが彼らの子供達です。
 「押坂彦人大兄」の場合は「舒明」でありまた「皇極」です。彼らは何と言っても「天皇位」についています。しかもその後の「新日本国王権」につながるような各天皇の「祖」ともいえる位置にあります。
 また「弟」である「難波皇子」(難波王)にはその子供達として「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」がいるとされます。(『古代氏族系譜集成』などによる)
 彼等は各々かなり高位の存在として扱われていたことが『書紀』から窺えます。(続く)

コメント

「小野毛人」の墓誌について(五)

2014年11月21日 | 古代史

 「皇祖大兄」と称される「押坂彦人大兄」の「御名部」と思われる「刑部」は、職掌から考えてその前身が「解部」である可能性が考えられます。

 『筑後国風土記』には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についてのものがあります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「刑部」の職掌そのものであると思われます。

「筑後國風土記」磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
「縣南二里,有筑紫君磐井之墓。墳高七丈,周六十丈,墓田南北各六十丈,東西各卅丈。石人?石盾各六十枚,交陣成行,周匝四面。當東北角,有一別區。號曰解部。前有一人,裸形伏地。號曰盗人。生為偸豬,仍擬決罪。側有石豬四頭。號曰賊物。賊物,盜物也。…」

 後の「養老令」でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な「刑事・警察」を職掌としていた過去を反映していると考えられます。そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと考えられ、彼の時代に「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったものではないでしょうか。
 この「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に彼の業績を讃える意味で彼の「御名部」となり、「押坂(忍坂)部」となったものと思われますが(さらに言えば、彼が「磐井」の後裔であったという可能性も考えられ、そのため「解部」を「伴部」としていたということかもしれません)、その後「御名部」の返還という事態となり、「押坂(忍坂)」という名称が外され、再び「解部」に戻されたものと思料します。(「刑部」という用語が使用されるようになるのは「大宝令」以後と思われます。)

 『隋書俀国伝』の記事によると、そこに「刑法」の存在が窺えます。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたようです。
(『隋書俀国伝』より)
「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」

 この内容は「隋初」に派遣された「使者」(遣隋使)が「隋」の「高祖」から「風俗」を問われ、それに応じて語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
 このような「刑法」を含んだ「律」中心の「律令」が「六世紀末」という段階で新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」であったという可能性が高いでしょう。
 また、「刑事・警察」はどのような場所にも必要であったでしょうから、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は当時「倭国内」に広く存在・分布していたものと見られ、実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。
 実際に「和名抄」に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であることが判ります。これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
 後でも述べますが、「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。そう考えると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたというのはある意味当然ともいえるでしょう。
 また「皇太子の下問の詔」では、かなりの数に上るであろう「群臣連及伴造、國造」が私有している「入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれるほどですから、相当なウェイトを占めていたと考えられ、「獻入部五百廿四口」という中のかなりの数は「皇祖大兄」である「押坂彦人大兄」の「御名部」ではなかったかと推察されます。(続く)

コメント