古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『続日本紀』記事の年次について

2014年11月11日 | 古代史

 肥沼さんのブログで「添田馨」という方の「貨幣」に関する講演のことが紹介されています。(http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2014/10/post-7ddd.html)
 私は以前この方の貨幣に関する論文(ほぼ講演と同内容のもの《『「和同開珎」再考―上古貨幣を支えた社会経済思想』大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報2012-2013 http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2013-01.pdf》)がネット上で公開されていることに気がつき読ませていただいたことがあります。そこでも「貨幣」に関して「年次」が遡上するという趣旨のことが書かれていました。
 ところで、私はそれ以前から『続日本紀』記事についてその年次に疑問を持っていました。たとえば(これはすでに以前書きましたが)、「隼人」関連記事などは本来『書紀』の記述範囲の中ではなかったかということを考察したものです。以下にそれを簡単に振り返ってみます。

 「天武紀」には「大隅直」等に対して「忌寸」姓を与えたという記事があり、その時点以前にすでに「大隅」地域の有力者に対して「直」という姓が与えられていたことが判明します。

「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸」

 そう考えると、以下の「斉明紀」記事がそれに関連しているといえるでしょう。

「斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。(百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。)蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及餐彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。」

 この時点で「内属」したとされ「倭国」の領土として組み込まれたというわけですが、この時点で「族長」などに対して「直」という姓が与えられたことを推定させるものであり、さらにそのことは「大隅国」という「国」の成立ももっと早かったのではないかという推測へとつながるものです。
 他の地域に於いても「直」や「忌寸」がいるところは、「倭国」の内部の「諸国」として存在していたと考えられますから、少なくとも「忌寸」段階で「国」が形成されていたと想定することは充分可能でしょう。そうであれば「評制」もまたこの段階で既に施行されていたということも充分考えられることとなります。
 たとえば『続日本紀』には「薩摩」と「肥」の人々による「反抗」等に類することが起きたとされています。

 「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」
 「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多�樊。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」
 「(同年)九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」

 この記事の中では「評督」という存在が書かれており、このことからこの時点で「薩摩」「肥」には「国制」が施行され、「国‐評‐里」という体制が建てられていたことを示すものと思われます。
 ところで以下の記事の中には「大隅隼人」「阿多隼人」は出てくるものの、「薩摩」「肥」の「隼人」は出て来ません。

「天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之」

 またここでは「大隅」「阿多」の両隼人グループが「朝廷」で相撲をとっており、彼らは早い段階から「倭国中央」に対して友好的であることが理解できます。つまり、「薩摩」「肥」とは異なり「大隅」「阿多」は「早期」に「倭国王権」に対して「帰順」したものと考えられるわけです。「持統紀」の「天武」の死に際しての誄にも「薩摩」「肥」の「隼人」は出てこないわけです。しかし、その「友好的」とは言えなかった地域である「薩摩」「肥」に「評督」「助督」が存在していたとされるわけですから、早くから友好的で「直」や「忌寸」などの「カバネ」を持った人物が存在していた「大隅」や「阿多」に「評督」がいなかったあるいは「評制」が施行されていなかったとは考えにくいこととなるでしょう。そう考えると『続日本紀』の「大隅国」についての以下の記事には疑いが発生することとなるわけです。

 「(和銅)六年(七一三年)夏四月乙未条」「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶良四郡。始置大隅國。」

 ここでは「大隅国」の成立について「八世紀」に入ってからというように書かれている訳ですが、上に見た「大隅隼人」に対する対応からは、「大隅国」というものの成立が実はもっと早かったとしても別に不思議ではないこととなります。それはこの「大隅国」というものが「分国」であるということからも言えることです。
 「分国」の場合はすでに治安その他が安定しているという前提があると思われ、それは「大隅地域」がそのような「安定さ」をすでに確立していたことを推定させるものであり、それは「斉明紀」以降継続していたものであることは確実ですが、それは「分国」そのものがもっと以前におこなわれて何ら不思議はないことも示します。
 さらに『日本帝皇年代記』の「癸丑」の年(和銅六年条)の「分国」記事には「丹後国」と「美作国」の設置記事はあっても「大隅国」設置記事がありません。

「癸丑六割備前六郡始為美作国、割丹波六郡為丹後也、唐玄宗開元元年 稲荷大明神始顕現」(『日本帝皇年代記』より)

 このように「大隅国」成立については触れられていないのです。このことは『続日本紀』の「大隅国」成立記事が真実なのか疑わしいこととならざるを得ないと思われます。
 以上のことから、「大隅」に早い時期に「評制」が施行されていないというのははなはだ考えにくいこととなり、「評制」が施行されているとすると、その「評」は「国」の下部組織であるわけですから、その時点における「大隅国」というものの存在が強く示唆されることとなるでしょう。つまりこの記事に関しては『続日本紀』記事の「年次」には疑いがあるということとなるわけです。

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