古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「肥後」表記と「竹斯国」

2014年11月14日 | 古代史
「推古紀」の「呉国」に派遣されたという「百済僧」達が「肥後」に流れ着いたという記事(以下のもの)については、「遣隋使」派遣時期の考察から、「呉国」とは「中国南朝」を指す「書紀」の常套語であり、時代として「南朝」滅亡直後の「五八八年付近」と推定したわけですが、この中の「肥後國」と云う表記が注目されます。

「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于『肥後國』葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

 これについては一般的には「潤色」という考え方がされているようですが、その根拠としては「令制国」の発祥が「律令制」と関連しているとするためであり、早くても「七世紀後半」あたりが想定されているようです。
 しかしこの記事を「素直」に考えれば、これは「南朝滅亡」という時期に既に「肥」が「前・後」に分けられていたことを示すと考えることができますが、「和名抄」など見ても「肥後」と「肥前」はつながっておらずそこには「筑後」が割り込んでいます。つまり「肥」についてはいわば三分割されたものであり、中央部分が「筑後」(筑紫後国)とされたものです。つまり「筑紫」についていうと元の「筑紫」を「前・後」に分割したわけではなく「筑紫」を拡大したわけであり、「肥」の一部を「筑紫」の一部へと編入したわけですが(これは「肥」の分割と「筑後」の成立が同時に行われたことを物語るものですが)、二〇一二年に大宰府から発見された木簡からは「竺志前國(嶋評)」という呼称や表記法が実用されていたことが窺え、「拡大筑紫」であったとしても「前・後」を付されて呼ばれていたことは確かのようです。
 しかし他方「隋書俀国伝」の「大業三年」の年次には「裴世清」の派遣記事があり、その行路としての地名で「竹斯国」というのが出てきます。そこでは「竹斯『前』国」というような呼称がされていません。このことから、この「行路記事」は「肥」の分割以前のこととなるものと思われ、それらの分割事業が「遣隋使」が帰国した後に導入された「隋制」に基づくものと考えると、「裴世清」の初回訪問時点ではまだ「分割」は(当然)行われていなくて当然ともいえますから、この記事はその時点における来倭時点のものであったと考えることができるでしょう。
 「肥後国」の成立が「州県制」という「隋」の高祖が行った制度改定の影響の元に行われたと考えると、この「肥後国」記事は既に「裴世清」が来倭した後のこととなりますが、「推古紀」の記事配列でもこの記事は「推古十六年」に行われた「裴世清」の「来倭」の翌年のこととされていますから、その意味では矛盾がありません。
 ところで、「聖徳太子」に関する伝承などから「六世紀末」に分国作業が行われていたというのは既に古賀氏の論考(「続・九州を論ず―国内史料に見る「九州」の分国」『九州王朝の論理』所収)があり、この文章はその蛇尾に付する類のものですが、ただ私見ではそれらが何に基づいているかが明確ではなかったと思われます。当文章ではそれが「隋制」に基づいていると考え、「遣隋使」がもたらした情報に則って「国県制」が「倭国内」に施行されたという観点で書いています。更にその前提として「遣隋使」が「開皇」の初めという時期に派遣されたとみるわけであり、その点が新しいと言えば新しいと言えるでしょう。

 このように考えると、この「大業三年記事」には深い疑いがあることとなります。本来「国交開始」のため「遣隋使」が派遣され、それに応じて「報表使」が派遣されたなら、その時点で「隋」として「倭国」に関する詳細な記録が作られたと見るべきであり、「行路」についても詳しい報告が為されて当然と思われます。この「大業三年記事」にそれが反映していると考えるのは当然であり、このときの「行路記事」はかなりの部分が最初の訪問時点のものであるという可能性が高いでしょう。しかし、他方途中に書かれている「隋使」を歓迎する様子は、その儀礼が「隋制」に則っているように見られ、これが最初の訪問時点のものではないこともまた確かであると思われ、「開皇二十年」時点のものが使用されていると思われます。つまりこの「大業三年記事」については、「行路記事」については「鴻臚寺掌客」としての最初の訪問時点の記録、「倭国王」との問答を含む「儀礼記事」は「文林郎」としての二番目の訪問時点のものの双方を巧妙に合成して記事を作成していると思われ、さらにそれを「大業三年時点」の記事として配置しているということとなります。
 かなり複雑な作業であったというわけですが、そのようなことが行われた理由の最大のものは「大業起居注」の亡失であり、「大業年間」についての全般記録の不備です。にもかかわらず本来書けないはずの記事が書かれているのは「貞観修史」という国家的事業の完遂のために「開皇起居注」から記事を移動して「造った」という可能性が考えられます。しかもそれは一度「唐」の「高祖」により作る指示が出されたにもかかわらず、未完成に終わったものであり、「太宗」にしてみればこれがそのまま未完成で終わるというようなことがあっ場合、「皇帝」の権威にも関わることと考えたとしても不思議ではありません。そのため「開皇年間」の記事が「大業三年」記事として顔を出すという仕儀となったものではないでしょうか。

 ところで「石神遺跡」や「飛鳥池遺跡」から発見された「木簡」の研究から「美濃国」においては「乙丑年」や「丁丑年」という年次の示す時期に「国-評-五十戸」という行政制度が既に形成されていたことが推定されており、全面的にであるかどうかは別として「令制国」と同様の広がりと内部組織を持った「国」というものが一般の想定よりもかなり早期にできていたらしいことが推定されています。

①「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
          口人田部児安」

②「飛鳥池遺跡出土木簡」
「(表)丁丑年十二月三野国刀支評次米」

 ここで「乙丑年」や「丁丑年」という干支の示す年次については通常では「六六五年」や「六七七年」を指すと解釈されていますが、これについては干支一巡遡上した「六〇五年」「六一七年」という年次も可能性があると思われます。それは前段に示した「肥後国」という表記が示すところである、「六世紀後半」という「州県制」施行と何ら矛盾しないものです。(但しそう考えると従来考えられている「評制」の成立時期そのものも遡上する可能性があるわけですが、それについても既に言及していますので参照してください。(「評制」の施行時期について(一~四)))
 ただし、この干支の示す年次が通常解釈の「六六五年」や「六七七年」であったとしても、「肥後国」表記が潤色とは言い切れないということもまた当然です。
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