古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『続日本紀』の年次について(続きその一)

2014年11月12日 | 古代史

 「添田氏」の論に言うような「日付干支の一致による移動」が正しいかどうかは今現在は何ともいえませんが、この「年次移動」は確かにあり、それは「貨幣関係」だけではなく「大隅国」成立記事に見たように『続日本紀』の他の部分についてもいえることなのではないかと考えています。それを端的に示すのは「『始』めて」記事群です。
 『続日本紀』を見ると「始めて」記事が多いことに誰もが気がつきます。しかもかなりのものが『書紀』とバッティングしています。つまり『書紀』に既にある、あるいは既に行われていることに対して「始めて」という語が置かれているのです。それは当然「矛盾」であるわけですが、この「矛盾」に対しては一元史観の立場からはほとんど議論にもなっていません。(試行的に行われていたことが正式なものとなったというような理解の様です。)
 また「九州王朝論者」というか「多元史論者」では「近畿王権」あるいは「新日本王権」としては「始めて」というような議論が行われているようですが、これは「多元史論」からの演繹ともいえそうですが、他方『続日本紀』という資料に対して批判精神が欠けているという気もします。
 私は「始めて」というものは「一回」しかなくて当然と思いますし、また「近畿王権」としても「倭国」の元々持っていた「大義名分」を犯してまで記事を書いていないのではないかという考えを持っていました。つまりこれらの「始めて」は「倭国」で初めての意であり、そう考えれば「年次」が移動されているのではないか、つまり実際の時期はもっと遡上するのではないかと考えていたのです。そう考えた契機は「正木氏」の「三四年遡上論」です。
 『書紀』の記事(特に持統紀)に大きな年次移動があるなら、それに直接接続されている『続日本紀』にもなければならないはずと思ったのです。『書紀』と『続日本紀』は年次がつながっていますから、『書紀』に年次移動があるならそしてそれが『書紀』の末年まであるのならば『続日本紀』にその影響が及ばないはずがないと考えたわけです。
 その「始めて」記事の中でも特に顕著に「矛盾」が感じられるのは「跪伏之令」に関する記事です。
 「慶雲元年」には「跪伏之礼」を「始めて停める」とされる記事があります。

「慶雲元年(七〇四年)春正月丁亥朔辛亥条」「始停百官跪伏之礼。」

 この記事は他の「始めて」記事とは意味が違います。それは何かを新しく始めると言うことではなく、「それまでの『跪伏之礼』を止める」と言っているわけであり、この記事には「それ以前」の情報が含まれているという点で違う種類の情報です。
 これよって理解できるそれ以前の情報と『書紀』の「朝廷」における「礼制」に関する記述は「矛盾」に満ちています。
 ここでは「跪伏之礼」が「始めて停められた」ように書かれていますが、「天武紀」には、「孝徳朝」に「立礼」になったと受け取れる記事が書かれています。

「天武十一年(六八二年)九月辛卯朔壬辰条」「勅。自今以後跪禮。匍匐禮並止之。更用難波朝廷之立禮。」

 この記事からは「難波朝廷」の時に既に「立礼」になったとされているわけであり、それを「復活させる」という趣旨と理解されますが、またそのことはそれ以前に「立礼」から旧(つまり跪禮と匍匐礼)に復していたことを示していると思われるものでもあります。しかし、そのいきさつは「書紀」等に全く書かれておらず不明です。どこかの段階で「詔」などが出され元に戻されたと考えるべきですが、そのようなものは何も書かれていません。それを示す兆候が何もない中では、明らかにこれと「矛盾」する記事であると思われます。
 そもそも「朝廷」における「禮」としては「推古紀」(以下)で「跪伏禮」様のものが定められたとされています。

「推古十二年(六〇四年)秋九月条」「改朝禮。因以詔之曰。凡出入宮門。以兩手押地。兩脚跪之。越梱則立行。」

 これがその後「難波朝廷」時点で「立禮」に変更したとされているわけです。それがその後(いつかは不明)また「跪伏之礼」が復活していたという訳であり、それを「天武」の時代になって、再度「立礼」を採用すると言うこととなったというわけです。しかもそれが更にどこかの時点で「跪伏禮」に戻され、「文武朝」まで続き、そこでまたもや「立禮」となったと言う事になります。
 また「書紀」の記事を信憑すると、「孝徳朝」以降「天武朝」までに「跪伏礼」が復活していたこととなりますが、この間は「遣唐使」も送られており、「唐」に学んだ諸制度が導入されたと見られる時期ですから、そのような中で「朝廷の禮」だけがなぜか「唐制」に拠らず「旧式」に戻ったこととなり、その意味が不明であると言わざるを得ません。(白村江の戦い以降「旧に復した」とするなら、それがまた「唐制」に準拠するようになったのはどういう理由で、何時のことなのかなど不審は消えません。)
 記事から考えると「推古朝」以来「跪伏禮」→「立禮」(at難波朝)→「跪伏禮」(at天智朝?)→「立禮」(at天武朝)→「跪伏禮」(at持統朝?)→「立禮」(at文武朝)と変遷したこととなります。このような変転が正常なものとはとても思えませんから、そこに何らかの錯誤ないし混乱があると考えるのは当然とも言えます。
 このような著しく「ぎくしゃく」した流れは、「始めて」の用語の示す「矛盾」と背中合わせのものであり、記事配列に大きな問題があることを感じさせます。

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