古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「小野毛人」の墓誌について(四)

2014年11月20日 | 古代史

 「小野毛人」が「春日皇子」の孫であり、また「刑部卿」などの重要な職掌を歴任していたと推察されることは、その「春日皇子」の兄弟たちの重要性の帰結であると考えられるわけであり、その意味で「長兄」でありまた「太子」とされる「彦人大兄」という存在に注目する必要があると思われるわけです。

 古代においては「法」の中でも「律」つまり「刑法」の存在が重視されていました。「西晋」時代に「泰始律令」が定められた後でも依然として「律」が優先であり、「令」は補助的であったものです。その意味では「警察」「検察」「裁判」という「律」に関連する業績が考えられる「押坂彦人大兄」は「律令」そのものの制定ないしは改定に関わったのではないかと推測できるでしょう。
 つまり「皇祖」として讃えられる人物である「押坂彦人大兄」は「律令」に深く関係していると考えられることとなりますが、それはまた「天子」自称と強くリンクするものであったと考えられます。それは「律令」と「天子」が強く関係しているからです。
 既に述べたように「皇帝」という称号は「秦の始皇帝」に始まるわけであり、その彼は「法治国家」を初めて作り上げたわけです。そしてその「法」の「集大成」が「律令」ですから、「法治国家」は「律令」なしでは完成しないものといえます。
 その意味からは「皇帝」や「天子」という称号を自称する「背景」としては、「律令制」の施行という事績があったと考えるのは当然であるといえるでしょう。そのような人物こそがこの国に始めて現れた「強い権力」の発現者であったと考えられます。
 また「律令制」というものと「郡県制」というものの間にも強い関連があることは既に良く承知されています。このことは「王」の元に「諸侯」がいるという「封建制」的国家体制が、「律令」の施行と共に解体され、「郡県制」へ移行したあるいは「しようとした」ということが想定されるものです。
 「律令体制」は即座に「中央集権体制」であり、それは「中間管理者」としての「諸侯」の存在を許容しないと考えられるからです。
 そう考えると、「律令」(ただし「律」を中心としたもの)の制定、ないし改定に関わったと見られる「押坂彦人大兄」という存在が「律令体制」と深く関係していると言う事は、「隋書倭国伝」で「阿毎多利思北孤」が「天子」を称したとされることと等しいことを示すと思われます。

 また、上の記事の中では「彦人大兄」という人物について「皇祖大兄」という「尊称」が奉られているわけですが、この「皇祖」という表現は軽視できません。それは「彦人大兄」という人物の「本質」が窺われるものといえるものです。
 この「皇祖」については「皇」の「祖父」つまり、「改新の詔」当時の天皇である「孝徳」の祖父を示す称号と理解するのが「一般」のようですが、『書紀』には「皇祖」という称号が複数出現しており、それらを見てみるとその時点の天皇の「祖父」のことを示すといえる例はほぼ皆無ではないかと考えられ、この「皇祖大兄」についても「皇」の「祖父」を指す「尊称」と即断することはできないと思われます。
 『書紀』には「皇孫(天孫)」である「瓊瓊杵尊」が「皇祖」として扱われています。「瓊瓊杵尊」は「天孫降臨」の当事者であり、正に「初代の王」です。
 つまり「彦人大兄」は「瓊瓊杵」と同列に扱われているわけですが、それは彼を「皇祖」と仰ぐべき何かがあったことを示すものですから、「天子自称」などの行為がそれに見合うものということもいえると考えられます。
 また、この「皇祖」という尊称については『書紀』には他にも多数現れますが、その中でも「持統紀」に現れるものに注目すべきでしょう。それは「倭国王」の死去の際に「弔使」として訪れた「新羅」からの使者(金道那等)に対するものです。
 そこでは、「皇祖」の代から「『清白』な心で仕奉る」といっておきながら、実際は違うと言うことを非難しています。

「(持統)三年(六八九年)五月癸丑朔甲戌条」「太正官卿等奉勅奉宣。…又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。又奏云。自日本遠皇祖代。以清白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷清白詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」

 このように非難している訳ですが、このような「新羅」が服従の姿勢を取ったという「遠皇祖代」とはそもそもいつのことを指すのかというと、以下の記事が該当すると思われます。

「推古八年(六〇〇年)春二月。新羅與任那相攻。天皇欲救任那。
是歳。命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍並闕名。則將萬餘衆。爲任那撃新羅。於是。直指新羅。於是直指新羅以泛海往之。乃到于新羅攻五城而拔。於是。新羅王惶之。擧白旗到于將軍之麾下。而立割多多羅。素奈羅。弗知鬼。委陀。南加羅。阿羅々六城以請服。時將軍共議曰。新羅知罪服之。強撃不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉師神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並検校事状。爰新羅任那王二國遣使貢調。仍奏表之曰。『天上有神。地有天皇。除是二神。何亦有畏乎。自今以後。不有相攻。且不乾般柁。毎歳必朝。』則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。弭新羅亦侵任那。」

 また、これとは別に「仲哀紀」には「神功皇后」により新羅遠征記事があり、そこでも同様の言葉と思われる『從今以後。長與乾坤。伏爲飼部。其不乾船柁。而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠。以毎年貢男女之調。』というようなものが「新羅王」から語られています。
 しかし、それ以降「欽明紀」には「任那」をめぐって戦闘が発生しており、それを考えると「倭」-「新羅」間は平坦な関係ではなかったこととなり、この「持統紀」で改めてそこまで遡って指弾するというのも不審です。それよりは「推古紀」というまだしも近い過去においての「誓約」が守られていないという事を非難していると考える方が論理的ではないでしょうか。また、「神功皇后」そのものを「皇祖」と呼称した例が見られないこともあり、ここでいう「皇祖」の代とは「六〇〇年付近」を指す用語として使用されていたことと判断できる事となりますが、それはまさに「彦人大兄」の時代のことと言ってもいいと思われるものです。

 ところで、彼の御名部であったと考えられる「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)(=「刑部」(おさかべ))は、「彦人大兄」の「御名」がかぶせられる以前は何であったのでしょうか。
 そもそもこのような「治安維持」に関する職掌がそれ以前になかったということは考えにくいものですから、該当する「部」は始めて作られたものでないと思われます。つまり、この時点で「改名」させられたものと考えられますが、職掌から考えてそれ以前の呼称は「解部」であったのではないかと推測されます。(続く)

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