古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「租賦」と「貸稲」

2015年08月03日 | 古代史
 前回の記事でも触れましたが、『倭人伝』によれば「邪馬壹国」には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「…收租賦、有邸閣。…」

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬し収めていたことを示すものです。
 この『倭人伝』の記事の中では他に見られるような「刺史の如く」のように「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが「倭」に存在しているという彼らの認識を示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 「魏晋」の場合(「呉」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから各用途に供出されたり(それがたとえば軍事用としての「邸閣」への供出と思われるわけです)あるいは「貸し付け」られたりということが行われていたようです。(※1)

 この時期は中国でも「班田」つまり「国家」が「祖を負担すべき田畑を付与する」という政策は当然行われていなかったわけですから、それらの「租」は全て「墾田」つまり私的に開いた「田畑」からのものと言う事となるでしょう。そして「魏晋」と同様「倭」においても同様の形で「租賦」を収集していたものと思われ、それは後の「倭国」の「養老令」時代の「薩摩国」とほぼ同様の施策に拠っていたであろうことを推定させるものです。そこでは「正税帳」が作られていたものの、「班田」は行われていなかったことが示されており、この「租」が「墾田」からのものであったことを示すと思われますが、そのようないわば「未開の地」と言うべき場所に対する政治的対応としては「緩い律令制」とも言うべき政策を行い、妥協したことを示すものと思われます。

 『倭人伝』を見ると「邪馬壹国」の統治範囲においては「刑法」(律)の存在や「諸国」に派遣されていたと思われる「官職制度」などの存在から「国郡県制」と思しきものが成立していた可能性が高く、そのことは「律令」というべきものがこの時点で「倭」の内部(邪馬壹国の統治範囲)にも存在していたらしいことが窺えますが、その「律令」は中国では「秦」に始まり「漢」から「魏晋」へと受け継がれていたものであり、これらの王朝と継続的に関係を結んでいた「倭王権」が「律令」に対して「無知」「無関心」であったとは想像しにくいものです。少なくともそれらの部分的導入が図られたものと思われますが、「卑弥呼」の「倭」においても「緩い律令制」とでもいうべきものが行われていたと考えることができるでしょう。

 ところで、「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などには天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは「種籾」を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れませんが(「中国にはそのような実例もあります)、他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。
 その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが(もっとも考えられるのは後にも述べますが「村落共同体」であると思われます)、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われ、後の「倭国」における「出挙」と同じ性質のものが当時存在していたと考えることができるのではないでしょうか。
 このように「米」や「種籾」の貸し出しに「利息」が伴っていたとすると「期間」が重要であり、それは自然発生的に「種蒔き」から「刈り取り」までと決められたという可能性が高いと思われます。それは貸し付けたものの返済時期としては収穫時期が最も適当だからです。
 このようなことは『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸し出しが行われていたことから推定できるものです。(※2)
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資するはずのものであったものです。
 その後これは「州県」という公的団体が「制度」として貸し付けることが行われるようになりますが、そうなるとその「利息収入」はその「州県」の重要な財政収入となってしまい、いわば「税」という形に変質させられることとなったものと思われ、農民の苦しみはなおいっそう増加することとなったものです。


(※1)伊藤敏男「長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係」
(※2)谷口建速「長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種粻」 : 孫呉政権初期における穀物貸与」『史觀』 (162), 43-60, 2010-03-25 早稲田大学史学会
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