「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。
それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。
「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」
つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。
さらに、現地での裁判が、「不正」(賄賂などの受け渡し)の場になることを懸念していたものであり、そのような「不正」に対し強く臨む態度であることを示すのが「六人奉『法』。二人違『令』。」という言葉に表れています。
ここでは「法」と「令」というものがあることが示され、それに対し「罰則」規定も存在していたことも推定される筆致です。
ここで、「罪」として問われているのは特に「莫因官勢取公私物。」というものであり、「公私混同」を厳しく諫めていると思われ、「公」というものの重要性を強く知らしめ、理解させようとしているように見えます。このような「力」を背景にした統治行為の一環として「東国国司の詔」やそれに基づく「賞罰の詔」、「品部」などの「接収」の「詔」などかなり「強引」な手法があったものと考えられます。
それに対し東方諸国からの反撥が予想以上に強く、またそのような中で強行しようとした倭国王に対し、身内とも言える筑紫王権からの支援勢力も離反した結果、難波朝廷に権力の空白が生まれ、近畿勢力に「難波朝廷」がいわば「乗っ取られる」形となったものとおもわれますが、それが『書紀』に書かれた以下の記事です。
「是歳。太子奏請曰。欲冀遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于倭飛鳥河邊行宮。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。」((六五三年)白雉四年条)
これによれば筑紫からの支援勢力は旧都である筑紫の首都である「倭京」に帰ったと推定され、筑紫において新たな人物を王として選び「筑紫王権」が存続していたものとみられる。ただし「倭国」から「日本国」への「国号変更」は、倭国王が直接統治を実行しようとした時点で「倭国」自ら行っていたものです。
これによれば筑紫からの支援勢力は旧都である筑紫の首都である「倭京」に帰ったと推定され、筑紫において新たな人物を王として選び「筑紫王権」が存続していたものとみられる。ただし「倭国」から「日本国」への「国号変更」は、倭国王が直接統治を実行しようとした時点で「倭国」自ら行っていたものです。
(以下の記事が相当すると思われる。)
(六四五年)大化元年秋七月丁卯朔…
丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。天皇所遣之使。與高麗神子奉遣之使。既往短而將來長。是故可以温和之心相繼往來而已。又詔於百濟使曰。『明神御宇日本天皇詔旨』。始我遠皇祖之世。以百濟國爲内官家。譬如三絞之綱。中間以任那國屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人觀察任那國堺。是故百濟王隨勅悉示其堺。而調有闕。由是却還其調。任那所出物者。天皇之所明覽。夫自今以後。可具題國與所出調。汝佐平等。不易面來。早須明報。今重遣三輪君東入。馬飼造。闕名。又勅。可送遣鬼部率意斯妻子等。
(六四六年)大化二年…
二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。『明神御宇日本倭根子天皇詔』於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。…。
この「日本」という名称は上に見るように「詔」つまり天皇の言葉として現れるものであり、書き換え等の造作が考えにくいことがあり、また「根子」がある地域の権力者を指す用語として『書紀』で使用例がありその意味で「倭根子」が「倭国王」の称号であったとみれば、この時点で「日本」が冠せられた意味として「日本」への国号変更が推察できるものです。
「倭根子」つまり「倭国王」としての立場の拡大あるいは延長として「東国」を直接統治することを明確にすることを意識して「日本」と国号を変更し「倭国王」から「日本国王」へとステージアップしたという宣言とみられるわけです。このことは難波朝廷」が副都として存在していたものが、難波から倭国王以外が一斉に「倭京」へ移動した結果権力の空白が生じ近畿勢力にいわば乗っ取られた結果「難波朝廷」の権力者達が「日本国」を名告る理由とも事情ともなったと考えられます。
ただし「筑紫朝廷」も「日本」と名乗ったという可能性を示唆するものです。なぜなら「日本」という国号変更は「倭国」つまり「筑紫朝廷」が行ったものであり、「難波」への進出がその契機であったとしても「筑紫」に戻った後においてもその国号変更が有効であった可能性が高く、そのまま「日本国」を名乗っていた可能性が高いと思われます。ただし、これは対国内的なものであり、遣唐使を送っていないため「唐」では「倭国」としての認識が継続していたものみられます。
結果的に国内には「日本」という国が二つ存在していたことになります。「難波王権」としての「日本」と「筑紫王権」としての「日本」です。