『懐風藻』や『元享釈書』『三国仏法伝通縁起』『三論祖師伝』『扶桑略記』など各種の史料に「智蔵法師」という人物について書かれています。それらによれば彼は「福亮法師」の出家前の子供とされます。その「福亮法師」については「法起寺」の創建に関わっていたとされ、「露盤銘文」によれば「戊戌年」(六三八年)になって「金堂」を「構立」したとされています。 (この「構立」とは「本建築」の前に「仮」に目印的に「木柱」などを建て「仏式」による「地鎮祭」様のことを行う意と思われます。)
また、「露盤銘文」そのものについては真偽が取りざたされているものの、その場合でも問題となっているのは「聖徳太子」との関連部分であり、「福亮僧正」に触れた部分については問題とはされていないようです。(※1)
また「福亮法師」は『三国仏法伝通縁起』によれば「慧灌僧正以三論宗授福亮僧正。」とされており、ここでいう「慧灌僧正」については「推古三十三年」(六二五年)来日とされており(同じく『三国仏法伝通縁起』による)、これに従えば「出家」は当然それ以前のこととなるでしょう。
また「福亮」と違い、子の「智蔵」については「慧灌僧正」から教えを受けたという記事はなく、それは「六二五年」という段階ではすでに「隋」に渡っていたという可能性を示唆するものです。ではいつの時点で「智蔵」は「隋」に渡ったのでしょうか。
この「福亮法師」については「呉人」とされており、この「呉」が中国「南朝」の「陳」を指すと考えると、これが「隋」により「征服」される以前の来倭であることが示唆されるものであり、「南朝滅亡」の年である「五八九年」以前がその年次として有力となるでしょう。
(これについてはすでに指摘したように『書紀』に書かれた「百済人」たちの「遭難記事について「隋初」段階(五八〇年代か)のことと推定できると思われるわけですが、「福亮法師」がこの中にいたという考え方もあるようです。)
この段階では彼は「俗人」として来倭したものであり、国内においては「熊凝氏」を名乗ったとされますが、後に出家したとされており、「智蔵」が出家前の子供と考えると、彼は既に「来倭」時点では生まれていたとみられることとなります。
また「智蔵」は『元亨釈書』によれば「隋」の「嘉祥大師吉蔵」から薫陶を受けたともされており、(※2)その「嘉祥大師吉蔵」は「六二三年」には死去していますから、少なくともこれ以前に「隋」(ないしは「唐」)に渡っていなければならないこととなります。
ところで「智蔵」は『懐風藻』の記述によれば「呉越之間」において「尼」について勉学したとされます。
「智藏師者,俗姓禾田氏。淡海帝世,遺學唐國。時呉越之間,有高學尼,法師就尼受業,六七年中,學業穎秀。
同伴僧等,頗有忌害之心。法師察之,計全躯之方,遂披髮陽狂,奔蕩道路。密寫三藏要義,盛以木筒,著漆秘封,負擔遊行,同伴輕蔑,以為鬼狂,遂不為害所以。…」(『懐風藻』釈智蔵伝)
これによれば彼には「同伴」の僧がいたこと、彼らと共に「呉越之間」という旧南朝支配下地域(現在の杭州市付近か)にあった寺院で「高學尼」について「業」を受けたことなどが明らかであり、(記録はないものの)正式な「學問僧」として派遣されたらしいことが判ります。しかし、派遣され勉学に励んだ先は「隋」(及びその後の唐)の首都ではなかったわけです。
「隋」は南朝滅亡後高僧などを「大興城」(長安)などに招集したとされますが、それは特に煬帝の時期であり(彼は「大業三年」以降は「長安」にいたとされています)、それ以前であれば当時「吉蔵」は「会稽」にあった「嘉祥寺」にまだいたわけですから、彼から教えを受けたとすると逆にこれ以降の時期であれば「呉越之間」で修行している「智蔵」が「嘉祥大師」から教えを受けることは適わないこととなるでしょう。そう考えると、彼は「大業三年」以前に「隋」に渡ったものであり、これを「開皇末年」付近と想定すると後の学問僧の例から考えて、その時点で十代後半程度の年令が想定されますから、「五八〇年」付近の生年と想定できるでしょう。それは「福亮」の出家前(というより「来倭前」か)の子供であるとみられることと整合するものです。(続く)
(※1)大山誠一『「法起寺塔露盤銘」の成立について』(弘前大学デジタルリポジトリ2001年10月)
(※2)(元亨釈書)「釋智藏、呉國人、福亮法師俗時子也。謁嘉祥受三論微旨。」