古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

那須評督韋提の石碑について

2021年12月06日 | 古代史
 山田氏のブログを久方ぶりに訪れて意外な記事を見つけて驚きました。そこには当方が書いた「那須直韋提評督」に関する論が掲載(引用され)一度はそれに従うものの、服部氏からのコメントに応じて全面撤回しているように見える記事がありました。しかしその根拠というのが「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されないというものでした。
 この記事及び服部氏のコメントには失礼ながら全く従えません。『「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されない』という一文には二重の意味において疑問があります。一つは「評督」が「官職」であると断定していること。一つは「碑文」という第一級資料よりも『書紀』を優先しているように見えることです。

 そもそも「評督」が「官職」であるというのは何に拠ったのでしょうか。『書紀』には「評督」は全く現れませんから、『書紀』の中に類例を求めることはできませんので、他の資料と思われますが、管見した範囲では確認できませんでした。「国造」に対して「賜」例はありますが、だからといってここでも「(被)賜」の対象が「国造」であり「評督」は「賜」の対象にはならないとは言えないはずです。
 『書紀』に「官職」を「賜う」例がないということと、「評督」が「官職」であるというのは直接は関連しないものであり、それを関連付けるには別の証明なりが必要と思います。
 『書紀』では「権力側」からの記述である「賜」例しか出てきませんがここでは上に書いたように「被賜」という受け身形です。(私見ではこの碑文は朝廷からの文書を引用しているとみていますが、もらった側がその立場で朝廷からの文書の文章を変えているという可能性もあるでしょう)この両者をストレートに比較するのが適当なのかがそもそも疑問ですが、もっとも気になるのは『書紀』にないからという理由が先に立っているように見えることです。
 この『石碑』という第一級資料に「賜」という表記が(「被賜」という形であっても)存在している意味を考えるとき、当時「評督」は「賜」対象であったという考え方も可能なはずであり、それは「評督」が「官職」か否かとは別の問題として考えられなければならない性格のものでしょう。「評督」についてアプリオリに「官職」と決めてさらに『書紀』を見て「賜」用法を探るというのは論理進行としてかなり問題なのではないでしょうか。
 「国造」が「賜」対象であることは確かかもしれませんが「評督」はそもそも現れないのですから「賜」の対象なのかどうなのかは不明というべきなのでしょう。そうであれば「被賜」の対象は別の根拠で判断するのが正当と思うのですが、いかがでしょうか。

 この「碑文」には「国司」ではなく「国造」であることから『書紀』の表記法と一線を画しています。『古事記』が「国造」としているところを『書紀』が「国司」としている例がありますが、多くの場合「国司」表記となっているのに対してここでは「国造」表記となっています。仮に「評督」が「国造」になったというのであるならその「国」とは「令制国」のそれなのか『常陸国風土記』に書かれたような「小国」としての「国」なのかが重要と思います。実際には「那須」という一小領域に関してのものであり「令制国」のそれではありません。本当にこの段階で「国造」(それが『書紀』のいう「国司」ならば)なぜ「下野」ではなくその一辺境に過ぎない「那須」なのかというのも疑問です。そのような小領域の「国造」を「被賜」されたことが「石碑」を建てるほどの誉れなのでしょうか。
 以前にも書きましたが、「難波朝廷天下立評」という事業の存在が史料(皇大神宮儀式帳)に書かれていますが、その時点で「国造」が全て「評督」に代わったわけではありません。『三代実録』にも『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』という記載がありますが。これも同様全ての「国造」が廃止されたということではなく、新たに「国造」を任命することはなくなったとみるべきであり、列島支配の主要な組織の一員としては重要ではなくなったことを意味すると思われるわけです。
 『持統天皇の伊勢行幸記事にも「国造」に「冠位」を「賜」したという記事があり、この時点で「国造」が存在しているのは明らかです。

(六九二年)六年…
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。天皇不從諌。遂幸伊勢。『賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。』并兔今年調役。…

 彼らは「屯倉」の管理者という存在ではないためそのまま「国造」として残った人たちと思われるわけです。官道の延伸に伴い重要拠点としての「屯倉」が設置された場合その管理者として「評督」が置かれたものとみられますので、「国造」と「評督」は並立していることとなります。(その意味でも「国造」と同様「賜」の対象であったと考えても不審はないように思います。)
 ただし以前の記事でも触れたように、木簡などでもこの「永昌元年」という時期に「国造」を「賜」されるというような例が見あたらないこと、そもそもこの時期の木簡に「国造」が表記された例そのものが皆無であり、「評制」が施行されている間に「国造」が同時並列的に『制度』として施行されていたとは考えにくいものです。(上に見るように「永従停止」とされているわけですから)あくまでも「七世紀」においては「評」という「制度」が施行されていたものであり、「国造」は「評制」が行われるようになって以降「制度」としては施行されていなかったとみるしかなく、そのようなものを「賜」したり「授与」するとは考えられないということです。
 また「屯倉」は物資の集積と権力者に対する発送という任務があり、その意味で「国家権力」に近い存在であり「国造」とは重みが違います。「那須直韋提」の子供達が「石碑」を建てたという中に「より重要な地位に「那須直韋提」が就いたこと、国家中枢とのつながりができたこと」を誇れることとした意義が認められ、そうであるなら「(被)賜」の対象が「国造」か「評督」のいずれかであるかは明らかなのではないでしょうか。
 以前の記事にも書いたと思いますが、「阿蘇氏系図」(田中卓著作集二巻付図 異本阿蘇氏系図)には「朱鳥二年」(六八七年)という段階で「評督」を授与されたことが書かれています。
 そこには「角足」《朱鳥二年二月為評督/改賜姓宇治宿禰》とあり、またその前代として「真理子」《阿蘇評督》という表記があります。
 この記事の意味するところは「朱鳥二年」(六八七年)という年次に「阿蘇角足」を「評督」としたこと、その時点で「賜姓」されたことを示しています。さらに、彼の前代の「真理子」も「評督」でしたから、「角足」への継承を認めたと言う事となると思われますから、この「評督」が「世襲」が可能な種類のものであり、「終身」その地位が保証されていたとみることができるでしょう。そのようなものは「賜」の対象としてふさわしいのではないでしょうか。一般に「賜」とされたものは「返却」の必要がない、いわば「もらったもの」というケースがほとんどと思われます。だからこそ「世襲」が可能であったと思われ、それは後の「郡司」やその後の「郡大領」等に継承されたと思われます。彼らも基本的には在地勢力であり「世襲」でした。これら「郡司」の前身としては(「国造」からもあったでしょうけれど)「評督」とのつながりの方が重要ではなかったでしょうか。そのことは「評督」が「賜」の対象であった可能性を強く示唆するものです。
 この「阿蘇評督」記事と「那須直韋提」の記事を比較すると、「那須直韋提」のケースが「評督」であったものが「国造」へというものであったとすると「阿蘇角足」の例と著しく異なることとなるという指摘の以前させていただいています。これらは年次も似通っており、国家権力の行動として共通の原理が働いているとすると、その任命には共通の意味があったと見るべきであり、そう考えればかたや「評督」へ、かたや「国造」へというのは理解しにくいものと考えます。
 また上記「阿蘇氏系図」によれば「評督」の遙か以前には「国造」であったことが書かれており、これらを信憑すると「国造」から「評督」へという流れが存在すると考えられますから、これらを総合して考えると、「評督」であったものが「国造」を授与されたとは考えにくいという考察をしておりますが、それは現時点でも依然として有効と考えています。
 「国造」を自称していたものが「評督」を与えられ、その地位と権利を「追認」されさらに権力中枢とのパイプができたと考えたからこそ「石碑」を建てる動機となったとみる私見には根拠なしとしないと思います。
 この件に関しては以前からいくつか記事を書いていますのでそれらを確認していただければと思います。
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