以前「戸」と「家」に関し書いていますが( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/27518e7d3ed01868110a16b22c89b0e2 以下の記事)、これと同内容の論を会報に送ったのですが(投稿日付2015年8月7日)、現時点で未掲載となっていますのでいわゆる「没」となったと思われます。このままというのも何なのでここに掲載します。
「戸」と「家」について(一)
「趣旨」
ここでは『魏志倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について検討し、「戸」が「魏」と同様の「戸籍」に基づくものであること、「家」は「兵戸」「」などの特殊な戸籍を表す表記と考えられ、また「戸籍」がないか「魏」と異なる「戸籍」の場合にも「家」で表されるという可能性が考えられること。『韓伝』の解析から「戸」と「家」とでは地域によってその内実が異なる事。以上を考察します。
Ⅰ. 「戸」と「家」について
『魏志倭人伝』(以下『倭人伝』と略す)に中に出てくる「戸」については古田氏により解析が既に行われており(註1)、そこでは『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位』とされています。そして『…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』と理解されているようです。
「戸」が「戸籍」に基づくもので、「その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」という理解は全く正しいと考えられますが、他方「家」についてはやや違う理解も可能と思われます。
『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
これについては古田氏は『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく「不弥国」は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』と述べられています。それによれば「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
「卑弥呼」の前代以来倭国内は権力争いが続いていたわけであり、またその後は「狗奴国」との争いがあったことなどを考えると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。(「倭建命」の説話でも判るように古代においては「女装」など様々なテクニックを弄して王権内部に接近し、「偽計」により相手の命を奪うなどの方策が選ばれることがしきりにあったと見られます)
「倭王権」がそのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「不彌国」の場合、「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所にあるわけですから、そこに国家が「戸籍」で管理できていない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」に対する理解は変更せざるを得なくなると思われます。
Ⅱ.中国における「家」の例
「家」の例については『三国志』の他の部分では、「数詞」を伴う場合は(例えば下の例の「四千餘家」というような表現の場合)特定の意味があるように見受けられる事が注意されます。
「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」(三國志/魏書 魏書三 明帝 曹叡 紀第三/太和元年)
ここでは「新城太守」である「孟達」が反乱を起こしたものの、「司馬宣王」率いる軍に敗れ、「部曲」四千餘家を率いて「魏」に帰った(降伏したの意か)とされています。つまり「四千餘家」は「部曲」であり、「部曲」とは「部隊」を構成する単位を示す用語であって(『書紀』に出てくる「部曲」はそれを転用したものと思われ、「軍制」との関連が窺えるものです)、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものですが、それを数えるのに「家」が使用されています。
一般に『三国志』中では「家」の使用例は多く、それは通常の「家」(いえ)という場合が圧倒的ですが、特に『魏志』における「家」の出現例を見ていくと、上の例のように「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。それを示すのが以下の例です。そこでは「流入した」者達が「家」で表され、彼等は上と同様「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。
「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀彧曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者『十萬餘家』,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,『兵家』遂彊。」(三國志/魏書 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬)
ここでは明確に「兵家」という言い方もされており、「兵士」と「家」の間に関係があることが示唆されています。
他にも同様の例があり、いずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。
「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊、揚、益州諸軍事,進封陳侯,增邑二千,并前『三千五百戸』。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置『十家』。後召還屯宛。…」(三國志/魏書 諸夏侯曹傳第九/曹仁)
ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「」というような人達についても「通常」の「戸制」に登録はされなかったものと思料されます。(後の「隋・唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる『大宝令』などにもそれは継承されているようです)
これらの例から考えて、「魏」の標準の戸籍(「魏」の戸籍は現存していませんが前代の「漢」と同じであったものと推定されます)ではない戸籍に登録されている場合に「家」を使用するというように理解されるものであり、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や「戸制」があってもそれが「魏」とは異なるという場合にも同様に適用されると見られます。
Ⅱ.『韓伝』における「戸」と「家」の関係
おなじ『三國志』の『韓伝』においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されており、しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この『韓伝』の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。(註2)そこでそれが事実か実際に計算してみます。
『魏志東夷伝』の『韓伝』には「馬韓」に関する事として「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」と書かれています。
ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一-五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
また『韓伝』の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われます。結局「1対3」という値を大きくはずれない数字が期待できるでしょう。
同様なことを同じ『韓伝』の「弁辰」について検討してみます。
『韓伝』には「弁辰」について「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」という記述があります。ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対3」程度という数字(比)とはかなり違う値となることが推定出来るでしょう。
以上のことは、同じ『韓伝』の中において「戸」と「家」の関係は特に決まっておらず、よく言われるように両者の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものです。それは「倭」の中の「戸」と「家」の関係についてもいえるのではないでしょうか。
このように『韓伝』の中で「馬韓」と「弁辰」の間において違いがあるのは、上に述べたように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、「韓」では「総人口」に対して「戸籍」制度が整備不十分のため、「捕捉率」(戸籍に編入されている割合)がまだ少なかったという事情があると思われ、特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定されることとなります。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったこととなり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できるでしょう。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられます。
「馬韓」の場合『韓伝』の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく『韓伝』中に「法俗特嚴峻」とされており、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
次稿では「戸数」と「家数」についてさらに考察します。
「註」
1.古田武彦『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)で「戸」と「家」について詳説されています。
2.たとえば中村通敏氏の『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社)の中の論。そこでは「馬韓」については計算されていますが「弁辰韓」についての数字の検討がされておらず、この二地域の「戸」と「家」の関係が異なる事が見落とされています。