ところでこの時点での「唐使」との対応は「津守連吉祥」と「伊岐史博徳」が主に担当しているようですが、この時点での「筑紫大宰」は『書紀』では不明です。
たとえば『続日本紀』の記事からは「阿部比羅夫」が「斉明」の時代に「筑紫大宰帥」であったという記事があります。
(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔…
庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。
このように「後岡本朝」つまり「斉明」の時に「筑紫大宰帥」であったとされています。しかし 彼は斉明四年段階では「越国守」とされていますし、翌年も「粛慎」との戦闘に出陣しています。ただし「斉明末年」は「筑紫」の「朝倉」に移動しており、この時「筑紫大宰」であったという可能性はありますが、「天智称制」期間には「百済を救う役」に出征しています。このままでは「筑紫大宰」が不在となってしまいます。その後については「栗前王」(これは「栗隈王」と同一人物というのが定評)及び「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったことが判明していますが、その以前が『書紀』の上では不明となっています。そのように考えてくると「阿倍比羅夫』の出征後に『筑紫大宰』の地位にいたのは「天智」自身ではなかったでしょうか。
彼が「筑紫大宰」として後事を託され、その後国内に発生した軍事的空白を利用し「日本国天皇」の地位に即いたとすると『善隣国宝記』に「称筑紫太宰辞、実是勅旨」という文章があることも理解できることとなります。
『善隣国宝記』によれば「天智」「天武」に対して「唐皇帝」の使者として「郭務悰等」が「国書」を持参したとされています。
『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
…、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)
上に見るように「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の二つが存在しています。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。
また『書紀』では「天智十年」に「郭務悰」が「国書」を提出したとは書かれていません。但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事が見あたりません。
この『善隣国宝記』の記事は「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「式部大輔」の役職にあった「菅原在良」が答えたものですが、彼がこの時の国書の文面について述べているからには確かに国書がもたらされ、それは「天智」が受け取ったことを示しますから、そのような重要な記事が『書紀』にないということは、「脱落」あるいは「隠蔽」が行われたことを示します。
この「天智十年」の「国書」が「天智」に渡っていたとするとそれは当然「筑紫」においてであることとなります。「天武元年」の際には「郭務悰等」は「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性はほぼないものと思われます。やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったと考えられることとなります。
「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況は「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずであり、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずですから「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことと思われる「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させるものです。
「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす(あるいは恫喝する)文面ではなかったかと思われるわけです。
「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同趣旨、同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということ思われる訳です。
たとえば『続日本紀』の記事からは「阿部比羅夫」が「斉明」の時代に「筑紫大宰帥」であったという記事があります。
(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔…
庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。
このように「後岡本朝」つまり「斉明」の時に「筑紫大宰帥」であったとされています。しかし 彼は斉明四年段階では「越国守」とされていますし、翌年も「粛慎」との戦闘に出陣しています。ただし「斉明末年」は「筑紫」の「朝倉」に移動しており、この時「筑紫大宰」であったという可能性はありますが、「天智称制」期間には「百済を救う役」に出征しています。このままでは「筑紫大宰」が不在となってしまいます。その後については「栗前王」(これは「栗隈王」と同一人物というのが定評)及び「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったことが判明していますが、その以前が『書紀』の上では不明となっています。そのように考えてくると「阿倍比羅夫』の出征後に『筑紫大宰』の地位にいたのは「天智」自身ではなかったでしょうか。
彼が「筑紫大宰」として後事を託され、その後国内に発生した軍事的空白を利用し「日本国天皇」の地位に即いたとすると『善隣国宝記』に「称筑紫太宰辞、実是勅旨」という文章があることも理解できることとなります。
『善隣国宝記』によれば「天智」「天武」に対して「唐皇帝」の使者として「郭務悰等」が「国書」を持参したとされています。
『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
…、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)
上に見るように「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の二つが存在しています。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。
また『書紀』では「天智十年」に「郭務悰」が「国書」を提出したとは書かれていません。但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事が見あたりません。
この『善隣国宝記』の記事は「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「式部大輔」の役職にあった「菅原在良」が答えたものですが、彼がこの時の国書の文面について述べているからには確かに国書がもたらされ、それは「天智」が受け取ったことを示しますから、そのような重要な記事が『書紀』にないということは、「脱落」あるいは「隠蔽」が行われたことを示します。
この「天智十年」の「国書」が「天智」に渡っていたとするとそれは当然「筑紫」においてであることとなります。「天武元年」の際には「郭務悰等」は「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性はほぼないものと思われます。やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったと考えられることとなります。
「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況は「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずであり、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずですから「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことと思われる「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させるものです。
「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす(あるいは恫喝する)文面ではなかったかと思われるわけです。
「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同趣旨、同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということ思われる訳です。