古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「皇祖大兄」とは(三)

2018年04月25日 | 古代史

 『筑後国風土記』には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についてのものがあります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「刑部」の職掌そのものであると思われます。

『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
「縣南二里,有筑紫君磐井之墓。墳高七丈,周六十丈,墓田南北各六十丈,東西各卅丈。石人?石盾各六十枚,交陣成行,周匝四面。當東北角,有一別區。號曰解部。前有一人,裸形伏地。號曰盗人。生為?豬,仍擬決罪。側有石豬四頭。號曰賊物。賊物,盜物也。…」

(以下読み下し)
「縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚交陣行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。…」

 後の『養老令』でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な「刑事・警察」を職掌としていた過去を反映していると考えられます。そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと考えられ、彼の時代に「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったと考えられます。
 この「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に彼の業績を讃える意味で彼の「御名部」となり、「押坂(忍坂)部」となったものと思われますが(さらに言えば、彼が「磐井」の後裔であったという可能性も考えられ、そのため「解部」を「伴部」としていたということかもしれません)、その後「御名部」の返還という事態となって、「押坂(忍坂)」という名称が外され、再び「解部」に戻されたものと思料します。(「刑部」という名称となったのは『大宝令』以後と思料されます)
 
 なお「律令」そのものは「前述」の「磐井」の墳墓の様子でも容易に推察されるようにこの時代に「律令」が定められていたであろう事、その中心はやはり「律」であったであろう事が理解できます。(この「律令」の制定に関わったのは「武」の晩年時代の「磐井」ではなかったかと考えられますが)
 しかし、「物部」の「筑紫占拠」という事態になって、「律令」は有名無実となったと考えられ、死文化していたと思われます。
 『古事記』の記事を信憑すると「押坂彦人大兄」は「甲辰年」(五八七年)には死去しているとされますから、「守屋」を打倒して「筑紫」を解放するという事業は彼の「弟王」である「難波皇子」達により行われたものではないかと考えられることとなります。
 彼らは「守屋」打倒を果たした後、改めて「律令」を改定施行したものと考えられますが、それを示唆するのが『隋書俀国伝』の記事です。
 『隋書俀国伝』の記事によると、そこにはしっかりした刑法が存在していた事が判ります。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたことが窺えます。

「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」

 この内容は「開皇年間の始め」に派遣された遣隋使の語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
 このような「刑法」を含んだ「律」中心の「律令」が新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であったという可能性が高いと思料します。

 また、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は「倭国内」に広く存在・分布していたものと見られ、(「刑事・警察」はどのような場所にも必要であったでしょうから)実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。
 「皇太子の下問の詔」では「其群臣連及伴造、國造所有昔在天皇曰所置子代入部」「皇子等私有御名入部」「皇祖大兄御名部入部」というように、かなりの数に上るであろう「群臣連及伴造、國造」が私有している「入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれるほどのウェイトを占めていたと考えられ、「獻入部五百廿四口」という中のかなりの数は「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったかと推察されるものです。
 実際に『和名抄』に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であることが判ります。これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
 後でも述べますが、「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。そのことから考えると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたというのはある意味当然ともいえると考えられます。

 これについてすでに検討された「故・中村幸夫氏」の論では、「皇祖大兄」とは「天智(中大兄)」を指すとされます。それはこの「改新」の詔全体が潤色であると見る立場からですが、その場合「御名部」とは「何部」になるのかが言及されておらず不明です。それは「正木氏」の論においても同様であり、「皇祖大兄」を誰に充てるかという論は即ち「皇祖大兄の御名部」とは「何部」という事が問題となると思われますが、それは議論された形跡がありません。
 「中大兄」は幼名が「葛城皇子」でしたから、その類推から考えると「葛城部」という「部」になりそうですが、『書紀』や『古事記』では「葛城部」は「允恭天皇」の「皇后」と関連して語られており、別の起源を持つとされています。

(仁徳紀)「仁徳七年秋八月己巳朔丁丑条」「爲大兄去來穗別皇子定壬生部。亦爲皇后定葛城部。」
 
(古事記下巻)「大雀命 坐難波之高津宮 治天下也…此天皇之御世 爲大后石之日賣命之御名代 定葛城部亦爲太子伊邪本和氣命之御名代定壬生部…」
 
 更にこの「葛城部」がその帰趨が問題になるほど大量にはいなかったと推定される事からも、「詔」にいう「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったと推定されることとなりますが、そうであるとすると「献上」する「御名部」がなかったにもかかわらず「記事」が構成されていることとなり、不自然であると思われます。この点からは「皇祖大兄」が「中大兄」とはいえないこととなります。(正木氏の論も同様の意味で不適格と思われます)

 ところで、『書紀』に書かれた「山背大兄」の失脚の場面では「蘇我入鹿」が「高向国忍」に対して至急「捜査して、捕らえるように」という指示を出しています。ここで指示されたという「高向国忍」は『続日本紀』等によれば「刑部尚書」つまり「刑部省」の長官とされ、「刑事・警察権力」の頂点にいた人物でした。「蘇我」は天皇の権威を上回る行動を取ったとされていますが、それは「刑事・警察」という国内統治の「ツール」を手に入れていたからであり、そのことは「国政」を統治するためには必ず「刑事・警察権力」を手中に収めなければならないことを示します。「押坂彦人大兄」もやはり「刑事・警察」を抑えた上でそれを自在に操るために「法」を整備したものであり、結果として大量の「御名部」を持つなど絶対的権力を発揮したものではなかったでしょうか。しかもそのことは『常陸国風土記』に「我姫」を統治するために派遣された「惣領」として「高向臣」が出てくることにも現れていると考えられます。この「高向臣」と前述の「高向国忍」とが「無関係」であったとも考えにくく、元々彼等は「解部」を職掌とする氏族であったのではないかと考えられ、「惣領」たる「高向臣」もその「惣領」という名にふさわしく「総帥権」を持っていたと考えるべきであり、(後でも述べますが「軍事」に関する権能も有していたと考えられます)「刑事」「警察権」をも保有していたと見るべきでしょう。それは「国司」に対して「管内」の訴訟を自ら裁いてはいけないという趣旨の「詔」が出されていることと関係していると思われます。それは「惣領」の役目柄であったと言う事を示しており、そのような「惣領」という職掌を、「我姫」を始め各地に配置するというようなことも「押坂彦人大兄」の業績の一端に存在するものと言うべきでしょう。(このことからもこの「押坂彦人大兄」という存在が「阿毎多利思北孤」によく重なると云えるでしょう。)

 この「皇太子への下問の詔」では「皇子」に対して「私有する御名部」についてどうするか「皇太子」に問いかけています。それを問われた皇太子は「書」を使者に持たせ、文書で回答していますが、結局「天皇」に献上するとしています。
 このやりとりから考えて、文章中の「皇子」は自分の子供を指しているものではないと考えられますし、また「皇太子」は傍にいないと言うことも判ります。
 「皇子」がその「名」を取り込んだ「御名部」を私有するのに、「父」である「天皇」(ここでは倭国王)がその経緯についてあずかり知らないと言うことは考えられず、「御名部」を保有する経緯に「現倭国王」(「現爲明神御八嶋國天皇」)が関与していないことは明白です。ましてやそれを「父」に「献上する」というのは奇妙な話といわざるを得ません。つまり「現倭国王」は「皇子」や「皇太子」の父ではないと云うこととなるでしょう。

 また、ここでは「皇太子」という人物が「臣」として「使者」を派遣して「奏請」し、「奉答」しており、これは「表」(文書)によって天皇と応答していることとなるのが注目されます。
 「屯倉」の数量等細かい数字が書かれているのは、使者が「口頭」ではなく「文書」を持参した事を示唆していますから、ここでは「皇太子」が「表」(文書)によって天皇と応答していることとなりますが、これは「倭国」では珍しい出来事です。「倭国」ではそれまでの歴史でもそれ以降でも「天皇」と「皇太子」ないし「臣下」の会話が「表」によるということはありませんでした。
 また、このような「表」による応答というものが『大宝令』にも規定されていないのは基本的には「八世紀」の天皇家と「臣下」の諸豪族との間には「共通」の権力基盤があり、ある意味一心同体であったからとも考えられるものです。しかし、この「改新の詔」の時点では「天皇」の諮問に対して「皇太子」なる人物は「使者」を遣わし「表」を「奉じて」回答しています。この「臣」が「皇太子」を指すならば、「天皇」と「皇太子」はよほど遠距離に離れて所在している事を示すと考えられます。でなければ、直接面前で応答することでしょう。
 
 また、この「詔」の中には「品部の接収」などと違って、「朕」が現れません。あくまでも「天皇」と「皇太子」が主人公として現れます。他の「詔」では「朕」と「今之御寓天皇」という両者が主人公とされており、それらとは状況設定が異なると考えられます。このことから、この「皇太子使使奏請」条そのものが「時代の様相」が異なることが推定されます。
 
 また、この文章中には「昔在天皇」という表現があります。

「昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。」

 つまり「昔在天皇等世」には「天下」がまとまって一つであったものが今では各国がばらばらになったという訳です。「天下」つまり「倭国」が「混齊」つまり、「国内」のどこも「混じり合って等しい状態」となっていたという訳ですから、これは「強い権力者」が「倭国」の全体を「統一」していた時代を指す表現と思われます。それは「阿毎多利思北孤」に始まり「七世紀半ばの難波朝期」ぐらいまでを指すものと考えられるものです。
 この時代は「官道整備」などを始め、「難波宮殿整備」など非常に高度の中央集権的事業が行なわれたことが確実視されており、それは「強い権力者」の存在を前提にしなければ理解できないものです。
 これに対し「分離失業」した状態というのはそれ以降を指すと考えられ、「唐」「新羅」との戦いに敗北し、「倭国王朝」の求心力が大きく低下した時代を指すと考えられます。この時代には「天智」による革命などもあったものと推定され、各諸国では誰を「倭国の盟主」と仰ぐべきか決めかねていたものとではないかと推測されるものです。
 それをここでは「天人合應。厥政惟新」という訳ですから、改めて「天」つまり「天神」を表徴するものであり、これは「九州倭国王権」の本拠地からの「てこ入れ」があったことを示し、また「政」つまり政権運営の全てを全く新しくするという訳であり、それを「歓迎する」というわけです。
 これらの時系列から考えて、これは『持統紀』が該当すると考えられ、「禅譲」により「日本国」が新王朝として誕生した時点のものであり、「朱鳥改元」及び「藤原副都」への「遷都」時点の発言と考えられます。それは、この段階まで「忍坂部」が存続していたことを示すものと思われ、この「詔」によりこれ以降「解部」に戻されたものと思料します。それを示すものが『持統紀』の「庚寅年」に出てくる「解部増員」記事です。

「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」

 ここに書かれたような大量の「解部」増員記事は一見不審です。それはこの「解部」が『大宝令』にも規定されているものの、その地位はかなり低く当時すでに重視されるような職掌ではなかったことが知られているからです。
 また『大宝令』は「飛鳥浄御原令」を准正としたと書かれており、大宝令の「解部」の状況は必ず「飛鳥浄御原令」の実情でもあったはずですが、そう考えると「解部一〇〇人」という大量増員は考えにくいこととなると考えられています。それは『大宝律令』も、それが「准正」としたという「飛鳥浄御原朝廷の制」も、かなりの部分が「唐制」(『永徽律令』あるいはそれを遡上する『貞観律令』など)に則っているとされており、特に「律」の部分は「令」よりもはるかに「唐制」に近いとされ、倭国独自のものというのはそう多くはないというのが言われています。しかも、この「解部」というのはその「唐制」にはない「職掌」ですから、このような大量増員が「持統朝」の出来事とするのは、「矛盾」であると思われます。
 しかし、この矛盾は「忍坂部」から「解部」への復帰という内容に置き換えて考えると納得しうるものであると思われます。つまり、これは「御名部」の返還という中で、それまでの「忍坂部」を名称変更して「解部」として再配置したものと考えることができると思われます。
 しかしその後「解部」は「律令制」から「はみ出した」状態となっていたと考えられ、下記にあるように「八〇八年」には消滅してしまい、「刑部」という「漢語」と(おさかべ)という「訓」だけが古の状態を遺存してしまったものと推量します。

「日本後紀卷十六逸文大同三年(八〇八)正月壬寅廿」「(『令集解』職員令)壬寅。詔曰。觀時改制、論代立規、往古沿革、來今莫革。故虞夏分職、損益非同。求之変通、何常准之有也。思欲省司合吏、少牧多羊、致人務於清閑、期官僚於簡要。」…(『類聚國史』一〇七刑部省)臓物司、併刑部省。刑部解部、宜從省廃。」

 以上「皇祖大兄」を『書紀』の「注」の通り「(押坂)彦人大兄」として解釈してみましたが、この解釈によれば「六世紀後半」と考えられる「倭国統一王権」の誕生の過程と重ねて考えることができるとともに、「七世紀末」の「庚寅年」の改革についても説明が可能であり、より整合性が高いものと思料します。


(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2014/12/20)(ホームページ記載記事を転記)


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