「古代官道」に関連するものとして考えられるものに、「筑紫大宰」からの「報告」という記事があります。
(一)「推古十七年(六〇九)四月丁酉朔庚子条」「筑紫太宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」
(二)「皇極二年(六四三)四月庚子廿一条」「筑紫太宰馳騨奏曰。百済國主兒翹岐弟王子共調使來。」
(三)「皇極二年(六四三)六月己卯朔辛卯十三条」「筑紫大宰馳騨奏曰。高麗遣使來朝。羣卿聞而相謂之曰。高麗自己亥年不朝而今年朝也。」
(二)と(三)の『皇極紀』の記事では「筑紫太宰『馳騨』奏曰。」と書かれているのに対して『推古紀』では単に「筑紫太宰奏上言。」と書かれていて「違い」があるようです。
辞書によれば「騨」とは「まだら」のある「葦毛の馬」を意味するとされていますから、『平家物語』などに登場する「連銭葦毛」(銭文が多数ある葦毛の馬)というような類の馬であったと推定されます。
つまり『皇極紀』の記事によれば「葦毛の馬」に乗って急いできたように読み取れますが、『推古紀』ではそうとは受け取れません。このことは『皇極紀』段階では上で見た「山陽道」が完成しており、そこを通り「驛(駅)伝」(途中駅においてある馬を次々使用して急行する)として来たものと推察されるのに対して、『推古紀』段階では「駅伝制」がまだ完成しておらず「乗り換える」馬がまだ「準備」されていなかったという可能性があります。
後の『養老令』では「外国」使者や「亡命者」などについての報告の際には「早馬」を使用するよう規定されており、それに従えばこの『推古紀』の記事にも「『馳騨』」という用語が使用されるべきですが、そうなっていないのです。これはそのような「道路」(というより「駅」)がこの段階で整備されていなかったことと、その運用に関する事もまだ決められていなかったことを示すと思われます。
しかし、(二)の事案段階ではそのような「駅制」を含む「道路環境」も「ルール」も整備されたものと見られ、この(一)と(二)の間に「画期」となる事象があったことが推察されます。
想定されるのは「利歌彌多仏利」の「改新」断行という時点であり、この段階で「山陽道」という「筑紫」とその「前身基地」とでも言うべき近畿(難波)を結ぶ幹線が先行して完成し、運用が開始されたものと見られます。
つまり、「駅伝」に関するルールなども『大宝令』(養老令)で規定される「はるか以前」に、「利歌彌多仏利」段階で定められたものと考えられ、それは『推古紀』以後の「六四〇年」付近にその年次が想定されるものです。
また、「六四〇年」に「命長」と改元されていますが、それに関連して「善光寺」へ使者(黒木臣)が「願文」を持って訪れています。(「善光寺文書」による)
このこともまた「官道」の整備と関係しているのではないでしょうか。少なくとも「近畿」まで行くことはかなり容易になったと考えられ、そこからの「東山道」整備も「信州」までは「難波朝」以前の段階である程度整備が進んでいたといえるでしょう。このためこのような「使者」の訪問という「公務」も容易に成し遂げられることとなったものと思料されます。
ちなみに、「東山道」の「延伸」(群馬まで)は、「難波朝廷」時代になってから行なわれたと考えられ、その後「壬申の乱」時代以降に「北関東」である「栃木」から「福島」程度まで延伸されたと考えられます。(「那須直韋提評督」の碑文からの解析)
また「北方地域」である「蝦夷」に対する戦略として「東海道」の延伸が「七世紀前半」には行われていたものと推測されます。それを示すと考えられるのが「仙台市郡山遺跡」あるいは「古川市名生部館遺跡」のような「多賀城」を更に遡ることが確実な「城柵」遺跡の存在です。これらは「七世紀半ば」までその起源が遡ることが確認されていますが、これらが造られることとなった「条件」としては、「官道」の存在が大きい、というより「必須」であったと思われます。
「官道」がその「基本的性格」として「軍事」に関わるものである事から考えても、「対蝦夷」政策の重要な部分として「官道」の「延伸」が行なわれ、そこに「城柵」と「政庁」の機能を併せ持った「出先機関」が設置されたものと考えられますが、それが「七世紀なかば」まで遡上すると言うことは「長野」辺りまではその「前段階」でできていなければならないものと思われますから、「起源」としてやはり「七世紀前半」というのはかなり確度が高いのではないでしょうか。
また「七世紀後半」の「百済」を救う役には「蝦夷」からも兵士が徴発されていたことが「捕虜」となって長期間抑留された後に解放されたという記事が『書紀』に出てきます。この事からこの時点では「蝦夷」(この場合は福島か岩手かが不明ですが)地域に対する統治が有効であったことは確実です。
ところで『書紀』では「六三二年」に「唐使」(高表仁)が来倭したとされていますが、この際「船」で「難波津」に到着したように書いてあります。
「六三二年」四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜共泊干對馬。是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。便告高表仁等曰。聞天子所命之使到干天皇朝迎之。時高表仁對曰。風寒之日。餝整船艘。以賜迎之。歡愧也。於是。令難波吉士小槻。大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。難波吉士八牛。引客等入於舘。即日給神酒。
上で推測したように、この「訪問」以前に「筑紫都城」周辺の官道や「山陽道」などは使用可能となっていたものと考えられますが、ここでは「あえて」「船」を使用しているものと思われ、それはこの「官道」を「知られないよう」にしていたとも考えられます。つまり、一種の「軍事機密」というわけです。この「官道」が軍事的意味が大きかったものとすると、当然「海外」の使者に対しては知られないように工夫をしたものとしても不思議はありません。(倭人伝で「一大国」と「不彌国」が「家」で表記されていること同じ意味を持つものかも知れません)
以上から、「山陽道」は「筑紫」と「近畿」(難波)を結ぶ重要な「官道」であったものであり、最優先で作られたと考えられ、「阿毎多利思北孤」段階で既に「実用」に供していたものと考えられます。
この「山陽道」及び筑紫大宰府周辺の官道については「唯一」の「大路」とされ、格別の広さであったことが確認されていますが、その「駅間距離」も重要です。『延喜式』によれば駅間距離は「三十里」とされ、現実に各地で発掘されるものを見てみると「16km」程度の距離がある場合が確認されており、これから「一里」を計算すると「530メートル」ほどとなって、『延喜式』の時代の一里の長さと整合していることが判ります。つまり「道路」はともかく「駅」に関しては八世紀に入ってから多くが整備されたらしいことがわかります。しかし、「山陽道」(明石から大宰府まで)については12キロメートル程度と、それらよりはかなり短く設定されており、これについては従来は「山陽道」の重要性と関連しているとだけ考えられていました。しかし、もっとも考えやすいものは「里単位」の変化ではないでしょうか。
当初は短里系が採用されていたと思われ、それは「官道」特に「山陽道」の幅が12―13m程度ありそれが「秦」の時代の「五十歩」という規格に適合していることでもわかります。その意味では「駅間距離」が10km以上になっているのは明らかに「三十里」という長里規格であり、「短里系」とは異なると言えますが、そもそも山陽道(当初の「東山道」)は整備が他よりも先行していたものであるものの、『推古紀』の記事からみても当初「駅制」が施行されていなかったとみられ、「駅」の配置はやや時代を下るという可能性が高く、それであればそこに使用されていた「里単位」は「隋」との交渉が行われた時期以降に導入されたものである可能性が高く、その場合「一里」はおよそ「415m」程度であったと考えられるわけです。(※)
これを念頭に入れて考えてみると駅間距離は他の官道と同様「三十里」であったと見られます。このことからは「隋・唐」との交渉が始まる以前から「山陽道」と「筑紫周辺」については既に官道が整備されていたということを考えなければならないこととなるでしょう。
つまり、この「山陽道」を初めとする各「官道」は、その「延長」もかなりの距離になると思われますから、一時に完成されたはずがなく、その全体の完成はかなり遅い時期を想定すべきですが、「段階的」な完成としては第一に「阿毎多利思北孤」の「六世紀末」(これが遣隋使以前であり、六世紀後半に山陽道など筑紫周辺と筑紫-近畿(これは難波京か)の連絡道路として造られたもの)、続いて「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」(遣隋使以降であり、東山道整備に関連するか)そして「七世紀半ば」の「伊勢王」更に「七世紀末」の「持統」というように、各「倭国王」の時代に「官道」がそれぞれ延伸され、それが即座に「統治強化」に結びついたものと思料されます。そして、その「傍証」とも言うべきものが「ヤマトタケル」神話です。
日本武尊(倭建命)は『書紀』にも『古事記』にも出てきますが、この「二書」で「東征」のルートが異なっているのが分かります。
『書紀』の中で「日本武尊」は「碓氷峠」を通っており、そこで「あづまはや」と詠嘆したとされています。これは後の「東山道」ルートです。これに対し『古事記』の中では「倭建命」は「足柄山」で「あづまはや」と歌っています。これは「東海道」のルートです。
このようにその「東国経略」に使用した経路に「違い」があるのは、この「二書」の「性格」の違いでもありますが、また「東山道」と「東海道」の完成時期の違いでもあると思われます。
『書紀』の原型は「伊勢王」段階で造られたものと考えられ、彼は「東山道」を整備し、その最新の「官道」に則って「東方統治」をおこなっていたものであり、これが『書紀』の「日本武尊」の東征ルートに反映していると考えられます。
それに対し「利歌彌多仏利」が「東国経営」のために送り込んだ「親新羅勢力」は、当時未開通であった「東海道」を完成させ、それを利用して「あづま」の国を統治しようとしたと解されます。
『古事記』は後述するように「天智」即位の大義名分確保の意味合いで書かれたとも考えられますから、「天智」の主たる支援勢力であった「あづま」(特に武蔵)の勢力の主要ルートであった「東海道」が「倭建命」の東征ルートとして書かれているものと思われ、この「二書」における「ルート」の差異は、それらの事情を反映した結果と考えられます。
(※)森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』一九四〇年 京都大学学術情報リポジトリより)
(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2016/08/28)(ホームページ記載記事を転記)