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慈恩寺 三蔵法師の遺骨 さいたま市岩槻区

2010年10月29日 17時18分35秒 | 寺社
慈恩寺 三蔵法師の遺骨 さいたま市岩槻区

西遊記のモデルになった三蔵法師の遺骨が、さいたま市岩槻区にある慈恩寺の玄奘(げんじょう)塔にあると知ったのは、台湾の観光地、日月潭の法師の遺骨のある玄奘寺を訪ねた時だった。玄奘とは、三蔵法師のことである。

帰ってきて、慈恩寺と玄奘塔 (写真)をさっそく見物に出かけたものだ。寺と塔は400mほど離れており、塔は花崗岩の十三重の石塔で高さ18m。5月5日には玄奘祭があり、子どもたちが孫悟空になって行列する。

最近になって地元の人々の間で、この話を町おこしにつなげようとする動きが出てきた。

「玄奘三蔵法師の里づくり実行委員会」では、玄奘とはどんな人で、インドへどんな道筋をたどったのか、なぜ岩槻に遺骨があるのかをやさしくまとめた小冊子「武州岩槻 玄奘塔ものがたり」を10年に出版した。

玄奘塔建立60周年を記念して、10月23、24日には、寺の境内と玄奘塔で、「玄奘三蔵法師の里づくりフェスティバル」が開かれ、講演、法師の道筋だったシルクロードの音楽の演奏などがあった。

これに先立ち9月23日には、テレビ東京は開局45周年記念番組として 役所広司を使って「封印された三蔵法師の謎」と題するドキュメンタリーを放映した。

三蔵法師のことは、孫悟空や沙悟浄(さごじょう)、猪八戒(ちょはっかい)が出てくる西遊記でしか知らなかった。7世紀に17年もの歳月を費やし、長安を出発して、灼熱の50度の砂漠、5000m級の天山山脈を越え、インドのナーランダ寺院からさらに東まで往復3万kmの過酷な旅をして、経典を持ち帰り、翻訳した法師が、にわかに身近に感じられるようになった。その旅の様子は「大唐西域記」に書かれている。

どうして、岩槻に玄奘の遺骨があるのだろうか――。

東武野田線東岩槻駅の北口に近い慈恩寺は、天台宗の名刹。9世紀に慈覚大師(大師とは朝廷から没後に贈られたおくり名。第3代天台座主。円仁)が開いたと伝えられる。

円仁は、最後の遣唐使船に乗り、長安の大慈恩寺で学んだことがある。大慈恩寺は、唐の太宗が三蔵法師のために立てた寺だ。

周囲の風景が大慈恩寺に似ていることから命名されたらしい。

インドから帰った三蔵法師はこの寺に篭もり、持ち帰った657部の経典をサンスクリット語から漢語訳した。法師の翻訳した経典は、64歳で亡くなるまで74部、1335巻に上った。わが国で使われている般若心経を初めとする経典の大半は法師訳だという。

その遺骨は戦乱に紛れて行方不明になっていた。第二次大戦最中の1942(昭和17)年、南京占領中の日本軍部隊が整地中に石棺を発見、法師の頭骨と分かった。

その2年後の昭和19年、南京の玄武山で頭骨を収める玄奘塔の完成式典が行われた際、中国側から日本の仏教界に頭骨の一部が贈られた。

遺骨はまず芝の増上寺に納められた。空襲を避け、埼玉県蕨市の三学院(京都智積院=ちしゃくいん=の末寺)を経て慈恩寺に移った。1950(昭和25)年、当時の根津嘉一郎東武鉄道社長から石塔の寄進を受けて建立された玄奘塔に納められた。

岩槻の慈恩寺から台湾の玄奘寺や奈良の薬師寺へも分骨された。

慈覚大師は、遣唐使船の難破などでやっと唐に入り、入唐から帰国までの9年半の旅行記「入唐求法巡礼行記」は、日本人が書いた初めての旅行記とされる。

玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」と並んで東洋の三大旅行記とされる。この2著は口述なのに、円仁のは自著である。

元駐日大使ライシャワー博士は、「東方見聞録」より歴史的に価値が高いと評価、世界に紹介した。

二人の偉大な求法の大旅行家が、一人は遺骨として、もう一人は開祖として岩槻の寺で相まみえるのは、因縁、いや仏縁を感じさせる。

慈覚大師とその弟子たちは、関東から東北にかけて500以上の寺を開山したり、再興したりした。その中には、浅草の浅草寺、松島の瑞巌寺、中尊寺、立石寺などが含まれている。


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