塙保己一 群書類従
番町で目あきめくらに道を聞き
という有名な川柳がある。これは保己一のことを読んだものとして知られる。番町は、当時の江戸・表六番町(現千代田区三番町)で「和学講談所」があった所だ。
この「和学講談所」は、講談を語るところではない。「儒学、神道、歌道には専門家がいて、教えを受けられる。しかし、国史や律令などの国学=和学にはそのようなところがない」と、保己一が、時の老中松平定信に願い出、その許可を得て設立された研究所兼大学だった。「群書類従」の刊行も大きな仕事の一つとなった。
「和学講談所」は、定信が「温古堂」と命名した。論語の「温故知新」からとった名前である。「温古堂」はのちに、保己一の号に使われたりした。
「群書類従」の版木や保己一の使った質素な机など、保己一由緒のものを保存している東京都渋谷区の國學院大學に近い「温故学会」はその名にちなんでいる。
「五重の塔」などを書いた幸田露伴は、「日本では、古いものを秘伝と称して特定の人たちに特定の方法で、密かに伝える慣習があった。『群書類従』などの出版で、古くからの文化が広く開放され、すべての人がその恩恵を享受している。だれもが、それまで手の届かなかった文献をじかに手に取ることを可能にし、学問の普及に貢献した」と保己一の業績を評価している。
同じ埼玉県北の深谷市出身で、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、1927(昭和2)年に建てられた「温故学会」の建物建設の先頭に立って尽力した。
その渋沢は「検校は一面から見ると、学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別な面から見ると、実業家であり、同時に政治家でもあった」と、この郷土の偉人を評している。
渋沢の言うとおり、保己一は単なる学者や知識人ではなかった。41年を費やした666冊の「群書類従」の出版は実業であり、保己一はその編集長と出版社社長を兼ねていた。「和学講談所」では今で言う学長、あるいは総長だった。その金策に奔走する姿は中小企業の社長さながらであった。
盲人社会の階級を一歩一歩登っていったのも、旗本と同等と見なされていた検校になれば、信用が高まり、「群書類従」の金策が容易になるとの判断があった。老中に将軍にもお目見えがかなった。政治家保己一の面目躍如であった。
盲目のハンデを抱えながらこのようなマルチ人間が、埼玉の片田舎から出たことに驚くばかりだ。
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