荻野吟子 日本最初の公認女医 熊谷市
日本女医会などのホームページによると、日本の医師国家試験合格者の中で女性は、三分の一を占めているという。ちなみに、女性医師の数は約4万5000人で、その比率は2割以下だ。(10年の時点) 出産などの事情で家庭に入ったままの人が少なくないからだ。
ところで、日本で初めて医師国家試験に合格し医師になった女性の名前をご存知の方はどれぐらいおられるだろうか。
埼玉県出身の人だから、県にゆかりのある方は、知っておられる方が多いだろう。荻野吟子――。「男女共同参画」が声高に叫ばれている時代だけに、塙保己一、渋沢栄一と並んで、埼玉の生んだ三偉人の一人に挙げられている。
埼玉の明治の初め、男性にしか許されなかった医師の国家免許を初めて獲得、女性医師の道を切り開いた吟子の人生は、苦難そのものだった。
1851年(嘉永4年)、現在の熊谷市俵瀬(当時俵瀬村)の名主の農家の五女に生まれた。地図を見ればすぐ分かるとおり、県北の中の県北で、利根川を挟んで隣は群馬県だ。
今でも葛和田の渡し場には「赤岩渡船」と呼ばれる渡し船が残っており、群馬側に黄色い旗を揚げると、熊谷側に迎えに来てくれる。
勉強好きで隣村の寺子屋や私塾で学び、17歳で隣村の素封家に嫁いだ。ところが、夫(後の足利銀行初代頭取)は遊郭で淋病に感染しており、吟子は子供を産めない身体になって2年後、実家に返された。
治療のため、東京の順天堂病院に入院したが、もちろん医師は男性ばかり。「女性医師がいれば、こんな恥ずかしい思いをしなくて済むのに」。
同じような境遇にある女性たちのためにも医師になる覚悟を決めた吟子は、親の反対を押し切って上京、まず、井上頼圀(よりくに)という漢方医で国学者の私塾に入学、塙保己一が編集した「群書類従」などの書物を学んだ。
ついで、お茶の水女子大の前身である東京女子師範の一期生になり、医学校入学のチャンスをうかがった。
1879(明治12)年、女子の入学を認めていなかった好寿院という私立医学校に唯一の女子学生として入学できた。
はかま姿に高下駄、髪型は男子と同じショートカットで通学、男子学生の嫌がらせをうけながら抜群の成績で卒業した。父親も死去していたので、家庭教師をして、学資と生活費を稼いだ。
ところが、「医術開業試験」の受験は、女性だからと拒否された。この時思い出したのが、「群書類従」の中に昔の法令の解説書である「令義解(りょうのぎげ)」があり、その中に医療制度を定めた「医疾令(いしつりょう)」に女性医師についての規定があったことだった。
「医疾令」は散失してそっくり欠けていたのを、塙保己一らが苦労して復元したものだった。
井上先生らにも内務省衛生局への働きかけを頼み、女性への受験が認められたのは1884(明治17)年。吟子はただ一人合格して、翌年、日本最初の公認女性医師となった。35歳。医師を目指して14年、上京して11年が経っていた。
東京・湯島に「産婦人科荻野医院」を開業、「女医第一号」と新聞などに書き立てられたため繁盛したが、健康保険制度もない当時、受診できない女性も多く、社会の現状を目の当たりにした。
「男女平等」の理想に共鳴して、キリスト教の洗礼を受け、「キリスト教婦人矯風会」に入り、風俗部長として婦人参政権の実現、廃娼運動、飲酒喫煙廃止運動にたずさわった。
39歳の時、13歳年下の同志社大学のキリスト教徒志方之善と結婚した。まもなく理想社会の建設をめざす夫とともに北海道に渡り、開拓を手伝い、医院を開業し、地元民の診療に当たったが、夫と死別した。
東京に戻り、本所で開業したが、晩年は生活に困るほど困窮した。1913年(大正2年)、肋膜炎を発病、養女に看取られ、脳溢血で死去した。62歳だった。
吟子のことは世間にあまり知られていなかった。医師である渡辺淳一による読売新聞の連載小説「花埋み」や、三田佳子主演の演劇「命燃えて」で脚光を浴びた。
吟子のことを調べているうち、驚いたのは、日本の公認女医第2号も、同じく県北の隣の深谷市出身だということだった。
吟子の二年後に合格した生沢クノという女性で、深谷、川越などで産婦人科を開業した。深谷の蘭医の娘として生まれ、81歳で亡くなるまで生涯独身。「おんな赤ひげ先生」と呼ばれ、治療費の代わりに数本のサツマイモを受け取ったという逸話が残っている。
クノが学んだ私立東亜医学校でも、女性は受け入れてなかったので、吟子同様、断髪男装で通った。一人別室で授業を聴講させられ、「別室先生」とあだ名された。クノが学んだ講師の一人が若き日の森鴎外だったという。クノが試験に合格したのは23歳だった。
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