四 談合
その後容態はさらに悪くなり、今日明日の命となり、一同最後の別れを行うこととなった。
其角が戻って一同が会した時、ずっと無口になっていた去来が突然意外な事を言った。
「皆様にご相談致したいことがございます。芭蕉翁は一昨夜御遺書を書かれたが、ついぞ辞世の句は申し上げられなかった」
「それは私も大変気になっておりました」其角はお茶を置いて言った。
「このままでは、俳句で一代を築いた宗匠の名に傷がつきます。そこで、皆々様の了解を得て我々で芭蕉翁の辞世の句を作りたいと思いますが、いかがでしょうか?」
其角はびっくりして、あやうく持ち掛けたお茶を落とすところであった。
「それはそうでございましょうが、芭蕉翁がまた目を覚まされて句をお申し付けになるかもしれないではございませんか?」と一応反論を言うのが精一杯だった。
一同があっけに取られていると、
「医者として申し上げるが、翁はもはや目を開けることは難しいかと存じます」木節は静かに言った。
「うむ」其角は、
「去来がこの様な申し出をするとは意外だ。芭蕉に陶酔して、私が提案したら真っ先に反対するものと思っていたが。同じことを考えているとは…」と考えたが、去来が提案したことに対する反発もあり、
「次郎兵衛どのはいかがお考えでしょうか。御子息の意見をお伺いしたい」
「父ももはや目を開けることはないでしょう。皆々様に最後まで御心配をおかけして恐縮に存じます。ご一同様がよろしければその様にお願い申し上げます」
「それではいかがいたしましょうか?翁の辞世の句となれば、それなりのものを考えないと」惟然坊も賛意を示しながら言った。
「やはり今は神無月でもあり、宗匠は、『時雨』に御縁がある方ですから『時雨』がよろしいのではないですか」正秀が申し上げた。
「やはり、どいつも同じ事を考えやがる。正秀程度ではしょうがないな。しかし、芭蕉の跡をつぐのは去来ではなくこの俺だ。みんなにそれを示さなければ…」と其角は考え、
「それより芭蕉翁は全国を行脚した方ですし、旅に生きた能因、西行、宗祇にあこがれておりましたし、旅の中で死ぬのを本望としておりましたので、題は『旅』とし、季語はその縁語の『枯野』ではどうでしょう?」
「うむ。」一同は賛意を示して頷いた。
しばらく一同はこれに替わる案の無いこととどういう句が良いか考えて、
「『旅に病み尚駆け巡る夢心』というのはどうでしょうか。」既に用意した句をさも今作った様に其角は述べた。事情を知っている呑舟は笑いそうになったが、之道がそれを抑えた。
「さすが其角様。宗匠の辞世の句にふさわしい句でございます」之道が賛意を示した。
「私もそう思います。詫び寂びの心にも通じ、良い句でございます」丈艸が答えた。
「これで決したな。後は去来が同意すれば決まりだ。これで私が宗匠の跡を継いだことを一同も納得したことだろう」と思ったところ、去来がやっと口を開いた。
「やはり其角師匠の句は、良い句ではございますが、翁の辞世の句としては少し工夫が必要かと思います。『旅に病むで夢は枯野を駆け巡る』ではどうでしょう?」
「おお、すばらしい。さすが去来様でございます。こちらの方がよろしいかと」乙州が答えた。
「よけいなことを…」其角は自分の句をけなされむっとした表情で、
「しかし、『旅に病むで』では字余りとなりますが。しかも切れ字としては弱い気がします」
「確かに字余りとなっておりますが、こちらの方が優れてらっしゃると思います」園女が答えた。
「如何でしょう。両句とも優れているおりますし、皆様で決をとっては?」酒堂が言った。
「他の方はどうしますか?わたしもこの二句のどちらかがよろしいかと思います」正秀が聞くと、
「拙僧は、宗匠の『旅』の縁語としてやはり『時雨』にすべきかと存ずる」と惟然は、あくまでも時雨にこだわった。斯波が、
「私としても去来どのの句が優れており、芭蕉翁の辞世の句としてふさわしいと考えます」と去来の句を押すと、大勢は去来に決していたのを察知した之道が其角を見ながら、
「それでは其角様の句を初案として去来様の句を改案としては如何でしょうか?」と両者の顔を立てる意見を言った。其角はむっとした表情で、
「皆様がよろしければその様にいたしましょう」
みんなの意見が一致しかけたとき、反論が意外な所から出た。
「諸先生のおっしゃることもわかりますし、諸先生に比べ私はまだ若輩でもあり、宗匠とのお付き合いもそう長いわけでもございませんが、今回初めて宗匠と旅のお供をさせていただき、宗匠のものの考え方なりを私なりに学ばせていただきました。宗匠は、自分の句にとても自信をお持ちであり、自分の句が世間に出ることに対して、かなり気を使われております。例えば、今回の病床の身でありながら、九日の日には、突然起きられて、『大井川浪に塵なし夏の月』の句を『清滝や波に散り込む青松葉』に改案してくれと私に頼みましたし、十日の日には、遺書として私が代筆いたしましたが、わざわざ奥州の岸本八郎右衛門様の句『川中の根木よろこぶすゞみ哉』と『冬枯の磯に今朝みるとさか哉』の二句が、句集『炭俵』で宗匠の句と採録されていたのは、彼の号『公羽』を『翁』と紛れてしまい、間違いだと杉風に釈明するよう言残されております。ましてや辞世の句として世間に出すとなれば宗匠として死んでも死にきれないのでは無いでしょうか。まことに若輩として恐れ多いことではありますが、宗匠のことを考えると、辞世の句をその弟子達が作るのは反対でございます。また、『枯野』や『時雨』の句では、宗匠の最近唱えておられた『かるみ』が無いような気がいたします」支考が申し訳なさそうに答えた。
「いつの時でも、やっと決まりかけた時に覆して、もとにもどそうとする奴がいるが、ここまで一門の意向として決まりかけたときに、つまらぬことを言いやがる」と其角はやや不機嫌な顔になった。当然周りのものも同じ困惑した顔つきとなっていた。
「支考さんのいうことももっともだが、芭蕉翁の辞世の句が無い方がよっぽど芭蕉翁にとって、死んでも死にきれないと思いますよ」何時もなら一門でも奇行で知られ、みんなと違う考えから、ぶつかってしまう変わり者の惟然坊がこの時ばかりはまともなことを言った。
「そうでございますよ。支考さん。我々は宗匠様のことを考えて、恐れ多いこととは知りながら、あえて辞世の句を作ろうとしているのですよ」大阪一門の第一のパトロンである斯波が言った。
「支考様の考えももっとな話です。そこで、辞世の句ではなく、『病中吟』ということで、辞世の句ではないが、最後の句ということで、収めてはいかがでしょうか。このままでは、宗匠の最後の句は、『秋深き隣は何をするひとぞ』になってしまい、これだけはなんとしても避けたいものですよ」酒堂が支考の意見も取り入れた調整案を言った。
集まった者たちは、この議論は芭蕉の為というより、芭蕉亡き後の自分たちの為ということを一同は十分知っていたが、一門の意見がまとまり、良い方に収まったことに安堵した。
去来は、芭蕉の辞世の句が決まったことを喜び、
「誠に翁の辞世の句を弟子の私どもで作るのは恐れ多い事とは存じますが、御陰様で良い句が出来あがりました。この句は八日の夜、伽をしていた支考さん、呑舟さんが、聞いたことにいたしましょう。支考さんよろしいですね。くれぐれもこの件については他言無用に願います」
「承知いたしました。」仁佐衛門が代表して答えた。支考は先輩諸氏の意見を再度覆す勇気は無かった。
「この件で去来に場を取り仕切られたが、まあ、俺の名で句が残るわけではないし、俺が芭蕉の跡を継ぐということを今日みんなに示すことは出来なかったが、いずれ追善の句会は俺が主宰すればよいではないか。衆目の一致する一門の第一人者である俺の名で、残ることをすれば、江戸の衆にも納得させられる。徐々にわからせていけば良い。釈迦が入滅した後のお経を編纂した摩訶迦葉の様に」其角はお茶をすすりながら考えた。
その後、一同による今生の別れの儀が行われた。
元禄七年十月十二日の夕暮前の申の刻になって、時代の最先端である風狂を駆け抜けた芭蕉庵松尾桃青は、榎本其角、向井去来、川井乙州、伊勢屋正秀、各務支考、内藤丈艸、広瀬惟然、望月木節、斯波一有、園女夫妻、花屋仁佐衛門、槐本之道とその弟子呑舟、そして彼の息子次郎兵衛が看取る中五十一歳の生涯を閉じたのであった。
朝からの時雨が昼には止み、周りの木々が夕日に映えきれいに輝いていた。
おわり
参考文献
「松尾芭蕉の総合年譜と遺書」俳聖松尾芭蕉・生涯データベース
http//www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm
「枯野抄」芥川龍之介 新潮新社
「日本詩人選十七 松尾芭蕉」 尾形仂 筑摩書房