佐藤忠信
佐藤次信
能登守教經はいかにもし
てよしつねを打んとて弓に
矢番て引しぼりしところ佐藤
次信よしつねの馬前に立ふさがり
志を教經忠義をかんじてひかへる所にいとこの紀の
九郎是をいさめければのり經ふたゝび弓引しぼ
りひやうとはなてば次のぶがむまいたいぬきける
次のぶ馬より落るところを紀の九郎ふねより●●
り上りはせよつて次のぶが首をかゝんしける所に
佐藤忠信すかさず
矢つぎばやにひや
うといつけけれ
ば紀の九郎は
もだへくるし
み良とぞはしり 紀野九郎
九郎が首をかき
おとしける
能登守教經
※佐藤次信
佐藤継信は、治承四年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信とともに義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、元暦二年屋島の戦いで討ち死にした。
※佐藤忠信
佐藤 忠信は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。治承4年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わった。兄・継信は屋島の戦いで討死している。
文治元年(1185年)10月17日、義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している。
文治元年(1185年)11月3日、都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏する。文治二年(1186年)9月22日、人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党2人と共に自害して果てた。(『吾妻鏡』より)
※能登守教經
平 教経は、平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の次男。平清盛の甥である。
平家物語では、数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城一の強弓精兵」と言われる平家随一の猛将であり、源義経の好敵手的存在として描かれている。
都落ち後、退勢にある平家の中でひとり気を吐き、水島の戦い、六ヶ度合戦、屋島の戦いで奮戦して源氏を苦しめた。最後は壇ノ浦の戦いの敗戦の中さんざんに戦い、源義経に組みかかろうとするが、八艘飛びで逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
ただし、鎌倉幕府編纂書の「吾妻鏡」では教経はさほど目立たない武将で、一ノ谷の戦いで甲斐源氏の一族である安田義定の軍に討ち取られ、京都で獄門になっている。一方で、「玉葉」、「醍醐雑事記」などの別の史料では一ノ谷生存説もあり、猛将であったことを含め教経の実像については不明な点が多い。
*紀野九郎 不詳。なお平家物語で忠信に屋島の合戦で討たれたのは、菊王丸。