東関紀行
今宵は更にまどろむ間だになかりつる草の枕のまろぶしなれば、寝覚もなき暁の空に出ぬ。岫が崎といふなる荒磯の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風はげしきに、うちよする波も隙なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して、干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打眺られつゝ、いと心ぼそし。
沖津風けさあら磯の岩づたひ波わけごろもぬれ/\ぞ行
蒲原といふ宿の前を通るほどに、をくれたるもの待つけんとて、ある家にたち入りたる、障子に物を書たるを見れば、
旅衣すそ野の庵のさむしろに積るもしるき富士の白雪
といふ歌也。心ありける旅人のしわざにや有らむ。昔香爐峰の麓に庵しむる隠士あり、冬の朝簾をあげて峰の雪を望みけり。いまは富士の山あたりに宿かる行客あり。さゆる夜衣を片敷て山ノ雪を思へる。彼是もともに心すみておぼゆ
さゆる夜はたれ爰にしも臥しわびて高根の雪を思ひやりけむ
田籠の浦に打出て、富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず。青くして天によれる姿、絵の山よりもこよなふ見ゆる。貞観十七年の冬の比、白衣の美女有て、二人山のいたゞきにならび舞と、都良香が富士の山記に書たる、いかならう故かたおぼつかなし。
富士のねの風にたゞよふ白雲を天津乙女の袖かとぞ見る
浮が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはる/"\とながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所/\棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。南は海のおもて遠くみわたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべて孤嶋の眼に遮なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。こなたかなたの眺望、いづれもとり/"\に心ぼそし。原には塩屋の煙たえ/"\立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。此原昔ハ海の上にうかびて、蓬莱の三の嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞にも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ。いとゞおくゆかしく見ゆ。
影ひたす沼の入り江に富士のねのけぶりも雲も浮嶋が原
和漢朗詠集
山家
鎌倉中期の紀行文学。一巻。作者未詳。1242年(仁治3)8月10日ごろ京都を出発し、十余日後鎌倉に到着。そこで約2か月間滞在し、10月23日ごろ帰途に着くまでのことを書いているが、京都から鎌倉までの道中記が大部分で、鎌倉滞在記は逗留(とうりゅう)期間60日にしてはきわめて短い。文章は漢語を多く用いた和漢混交文であるが、和文、漢文のよくこなれた流暢(りゅうちょう)な文章である。また文中に『源平盛衰記』や『長門本(ながとぼん)平家物語』の文章と類似した部分がある。同じ鎌倉時代の東海道や鎌倉を描いた『海道記』に比べると自照性に乏しく、紀行文学としての文学的価値は低い。