年毎に
生そふ竹の
世々をへ
て
かはらぬ
いろを
誰とかは
見む
新古今和歌集 賀歌
延喜御時屏風
紀貫之
年ごとに生ひそふ竹のよよを経てかはらぬ色を誰とかは見む
よみ:としごとにおひそふたけのよよをへてかわらぬいろをたれとかもみん 隠(為相本隠削)
意味:毎年生えて増えて行く竹の様に代々経ても変わらない色を誰の事と見ましょうか?もちろん他ならぬ法皇様の事でございます。
備考:貫之集に「延喜四年九月法皇の御六十賀京極御息所のつかうまつり給ときの御屏風のうた十一首」とあるが、伊勢集にも「亭子院六十御賀京極の宮す所つかうまつりたまふ御屏風の歌」と収載されている。節々と代々の掛詞。
鎌倉初期の歌人・歌学者として名高い藤原定家の書流。定家の書は、字形にあまりこだわらず、筆圧の強弱を極端に表した線質に特徴があり、癖のある書風ではあるが、独自の風格を備え、定家の末裔(まつえい)にあたる二条、冷泉(れいぜい)、京極など歌道の家々によって、歌学の継承とともにその書風にもまた著しい影響を及ぼし、近世に入り、定家流あるいは定家様の名で喧伝(けんでん)された。茶道において定家の歌論が尊崇されたため、歌人や茶人の間で多くの追随者を輩出。関白近衛信尹(このえのぶただ)をはじめ、烏丸光広(からすまみつひろ)、冷泉為村(ためむら)らの歌人、里村(さとむら)玄陳らの連歌師、小堀遠州、松平不昧(ふまい)らの茶人は、いずれも定家流の名手である。
横:約58.5cm
縦:約92cm
藤原定家
藤原俊成ノ子ナリ。歌ヲ以テ名ヲ顕ハス。元久ノ初メ後鳥羽上皇勅シテ源通具藤原
家隆雅経等ト新古今和歌集ヲ撰セシム。上皇勅シテ定家家隆等所作ヲ部首
ニ冩カシム世之ヲ栄トス。又後堀河帝勅シテ新勅撰和歌集ヲ撰セシム。定家
正二位権中納言ニ進ミ天福元年祝髪シテ名ヲ明静ト改ム。仁治二年薨ス。
年八十世ニ京極中納言ト称ス。嘗テ草堂ヲ嵯峨小倉山ニ設ケテ息遊ノ所トナス。
定家卿和哥
令和3年12月26日 壱
令和3年12月26日 壱