新古今和歌集の部屋

平家物語巻第十二 付 吉田大納言の沙汰

 
 
 
 
 
 
 
付 吉田大納言のさた
                            すけよりとも
去程に、かまくらの前の右兵衛の佐頼朝日本国のそう
づいふくしを給はつて、たんべつにひやうらうまい、あて
行ふべきよし、公家へ申されたりければ、法皇仰せけるは、
むかしよりてうてきをたいらげたるしには、はん国を給
はるといふ事、むりやうぎ經に見えたれ共、さやうの事

は有がたきためし也。是は頼朝がくわぶんの申ぢやうかな。
とて、諸卿に仰あはせらえたりければ、公卿せんぎあつて
よりとも
頼朝の卿の申さるゝ所、だうりなかばなりと、しよきやう
一とうに申されたりければ、法皇もちからおよばせ給はず。
やがて御ゆるされ有けり。諸国にしゆごをおきかへ、荘園に
地とうをふせらる。かゝりしかば一もうばかりもかくるべきやう
ぞなかりける。かまくら殿かやうの事をば、公家にも人おほ
しといへ共、よし田の大納言、つねふさの卿をもつて申され
けり。此大納言はうるはしき人と聞え給へり。其ゆへはへい
                         げん
けにむすぼほれたりし人々も、源氏の世のつよりし後
あるひはふみをつかはし、あるひは使者をたてゝ、さま/"\に
へつらはれたりけれ共、此大納言はさもし給はず。されば
平家の時、法皇せいなんのりきゆに、をしこめ奉て後、
院のべつたうをおかれけるにも、八条の中納言、長かたの卿、
此大納言二人をぞふせらえける。ごんの右中弁、みつふさの

あそんの子なりけり。しかるを十二の年、ちゝの朝臣うせ給
ひしかば、みなし子にておはせしか共、しだいのしやうしんと
どこほらず。三事のけんようをけんたいして、せきらうの
くはんしゆをへ、さんぎ大弁、だざいのそつ、中納言大納言にへ
                                                      ぜんあく
あがつて、人をばこへ給へ共、人にはこへられ給はず。されば、善悪は
きりふくろをとをすとて、かくれなし。有がたかりし大納言也。

平家物語巻第十二
  五 付 吉田大納言の沙汰
去る程に、鎌倉の前の右兵衛の佐頼朝、日本国の惣追捕使を給はつて、反別に兵糧米、あて行ふべき由、公家へ申されたりければ、法皇仰せけるは、
「昔より朝敵を平らげたるしには、半国を給はる」といふ事、無量義経に見えたれども、さやうの事は有り難き例也。
「是は、頼朝が過分の申状かな」とて、諸卿に仰せ合はせらえたりければ、公卿詮議あつて
「頼朝の卿の申さるる所、道理半ばなり」と、諸卿一統に申されたりければ、法皇も力及ばせ給はず。やがて御許され有けり。諸国に守護を置き換へ、荘園に地頭を封せらる。かかりしかば、一毛ばかりもかくるべきやうぞ無かりける。
鎌倉殿、かやうの事をば、公家にも人多しと云へども、吉田の大納言、経房の卿を以て申されけり。この大納言は、麗しき人と聞え給へり。その故は、平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の世の強りし後、或ひは文を遣はし、或ひは使者を立てて、樣々にへつらはれたりけれども、この大納言は、さもし給はず。されば、平家の時、法皇、西南の離宮に、押し込め奉つて後、院の別当を置かれけるにも、八条の中納言、長方の卿、この大納言二人をぞふせらえける。
権の右中弁、光房の朝臣の子なりけり。然るを、十二の年、父の朝臣失せ給ひしかば、孤児にておはせしかども、次第の昇進し滞らず。三事の顕要を兼帯して、夕郎の貫首をへ、參議大弁、大宰の帥、中納言大納言にへ昇つて、人をば越へ給へども、人には越へられ給はず。然れば、善悪は錐袋を通すとて、隠れなし。有り難かりし大納言也。

無量義経 法華三部経の一つ。「譬へば健人、王の為に怨を除き、怨既に滅し已りて、王大に歓喜し、半国の封を賞賜し、皆悉く之を与ふるが如し」より。

※吉田の大納言、経房の卿 吉田経房(よしだ つねふさ)。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の子。官位は正二位・権大納言。源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。吉田家(後の甘露寺家)の祖。日記として『吉記』(きちき/きっき)が伝わっている。「うるわしい人」(『平家物語』)・「廉直な貞臣」(『吾妻鏡』)と頼朝が評したとされる話も決して大袈裟ではなく、元暦元年(1184年)に頼朝が朝廷に対して経房の権中納言昇進を求めて受け入れられたのを機に頼朝からの朝廷や院への要請は多くが経房を経由して行われるようになる。これが鎌倉幕府における関東申次の始まりであると考えられている。また、文治二年(1186年)十月と建久六年(1195年)1月に大規模な歌合を行っている(「経房家歌合」「民部卿家歌合」)。この歌合は幅広い出自を持つ新旧の歌人が揃った『新古今和歌集』への過渡期の歌合とされており、例えば前者には六条藤家の中心であった藤原経家や御子左家の次代を担う存在であった藤原定家、源長俊・中原清重・大江公景といった院近臣層に属する諸大夫・地下人出身者などが参加していた。式子内親王の後ろ見。治承三年(1179年)
十二月七日 後院(高倉上皇)別当。

※法皇、西南の離宮に、押し込め 鳥羽離宮へ幽閉する(治承三年の政変)。

※藤原長方 平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家勧修寺流葉室家、権中納言・藤原顕長の子。官位は従二位・権中納言。藤原俊成の甥で藤原定家の従兄に当たる。治承五年(1180年)2月21日:親院別当に補す。治承5年(1181年)、権中納言。「八条中納言」と称される。剛直な人柄であり、平清盛の政策にしばしば反対した。福原遷都に異を唱え、後白河法皇の幽閉に反対している。

※夕郎の貫首 蔵人頭の異名。

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