新古今和歌集の部屋

畠山重忠 深谷市2 畠山重忠公史跡公園


源平盛衰記 巻第三十六
清草射鹿並義経赴鵯越事
去程に軍は七日の卯刻に矢合と被定たりければ、義経、田代冠者を招て宣ふ様、土肥次郎実平等を具して、七千余騎にて、一谷西の城戸口、山の手を破給へ。義経は音に聞ゆる鵯越を落し候べしとて、佐藤三郎継信兄弟、江田源三、熊井太郎、伊勢三郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、片岡八郎為春、佐原十郎義連、後藤兵衛真基、源八広綱、武蔵坊弁慶等を始として、手に立べき究竟の兵三十余騎を撰勝り、一万余騎が中より三千余騎を相具して、三草山奥へ入、綱下峠打過て、青山にかゝり、折部山、鉢伏峯、蟻戸と云所へ向けり。軍将の其日の装束には、青地錦の直垂に、黒糸威の鎧著て、鹿毛なる馬の太く大なるに、貝鞍置て乗給ふ。


巻第三十七
義経落鵯越並畠山荷馬付馬因縁事
畠山は赤威の冑に、護田鳥毛の矢負、三日月と云栗毛馬の、太逞に乗たりけり。此馬鞭打に、三日の月程なる月影の有ければ名を得たり。壇の上にて馬より下り、差のぞいて申けるは、爰は大事の悪所、馬転して悪かるべし。親にかゝる時、子に懸折と云事あり。今日は馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。東八箇国に大力とは云けれ共、只今かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。
畠山は、此岩石に馬損じては不便也。日比は汝にかゝりき。今日は汝を孚まんと云ける。情深しと覚たり。其後三千余騎、手綱かいくり鐙踏張、手をにぎり目を塞ぎ、馬に任せ人に随て、劣らじ/\と落しけるに、然べき八幡大菩薩の御計にやと申ながら、馬も人も損せざりけるこそ不思議なれ。落しもはてず、白旗三十流さと捧、三千余騎同時に時を造、山彦答て夥し。


伝畠山重能墓



畠山重忠墓









一ノ谷鵯越合戦図 国芳

コメント一覧

kunorikunori
Jian様

室町物語集のなかに弁慶物語があり、読んでみました。
架空と実在とを合わせ巧みに書いていると思われます。
https://www.mikumano.net/setsuwa/benkei0.html

平家物語を参考にしているのかもしれません。

弁慶は、「あの連座に並んでお座りしていなさる一門を、誰々と教えよ」と言うと、「それは簡単なこと」と言って申し上げたことには、
「まず左に正座なさるのは、
小松殿(平重盛。清盛の嫡男)、
右大将宗盛(むねもり。清盛の三男)、
三位の中将重衡(しげひら。清盛の五男)、
新中納言知盛(とももり。清盛の四男)、その他の人々である。
右の一座は平大納言時忠(ときただ。清盛の妻時子や後白河院の女御建春門院滋子の兄)、
三河守教盛(のりもり。忠盛の四男、清盛の弟)、
越前の三位通盛(みちもり。教盛の嫡男)、
能登守教経(のりつね)、
蔵人の大夫業盛(なりもり。教盛の三男)、
修理の大夫経盛(つねもり。忠盛の三男、清盛の弟)その他の人々である。
侍には
越中の前司盛俊(もりとし。清盛の腹心の部下)、
上総守(藤原忠清)、
常陸守(未詳)、
悪七兵衛(あくしちひょうえ。藤原景清、忠清の子)、
藤内左衛門(とうないさえもん。後藤内定経)、
吉内左衛門(きちないさえもん。橘内左衛門尉季康)、
原の小藤太(はらのことうだ。未詳)、その他の人々」
と、通称、本名ありのままに語った。

この吉内左衛門季康は秀康のことなのかもしれません。
原の小藤太は原高成(良岑)かもしれません。

架空と実在、疑いの目で見始めると際限なくわからなくなってしまいますね。

和歌や古文書に残っているのが証拠としてしまうと、証拠が残っていない者たちは皆架空になってしまう。難しい問題だと思いました。
jikan314
@kunorikunori 源平盛衰記の最初の
佐藤三郎継信兄弟…実在
江田源三…実在
熊井太郎…実在
伊勢三郎義盛…実在
熊谷次郎直実…実在
平山武者所季重…実在
片岡八郎為春…実在
佐原十郎義連…実在
後藤兵衛真基…実在
源八広綱…実在
武蔵坊弁慶…【架空】
と言う根拠無しですね😃
赤穂浪士もかなり架空が有って、みんな信じてますね😃松の廊下に松の絵は無かったけど、舞台映えするから?
ずらずらと功績並べ冷酒(さけ)肴
kunorikunori
あはは🤣
全部架空かもしれませんよね。
吾妻鏡も、誰かの創作!
これしか無く、詳しいので、ついつい信じてしまいますが、鎌倉の司馬遼太郎が書いたかも知れません!

と、すると三谷氏の話も千年すれば、、
しみじみ、しみじみと言いあっていた。と、さも本当だったかの様になっているかもしれませんねー。
jikan314
@kunorikunori 吾妻鑑について、全く知識が無いので、理由は分かりません。
しかし、歴史学者は、都合の良い時、例えば吾妻鑑に弁慶が出て来ないから架空だ!那須与一の出来事は架空だ!と言いつつ、吾妻鑑は北条氏に不都合な部分は削除した、都合の良い部分は架空だ!と自分の説に都合の良い解釈を展開している。
現代で考えてみても、自分の戦死した伯父は何と言う部隊にいたか?どう戦ったのかは、知らない。これは平家物語、吾妻鑑も同じだと思っております。
平家琵琶法師に、「うちのじい様は、この戦に参加した。じい様の供養だから名前を入れてくれ!」とお礼を弾んだのでは?。平家物語には、異様に参加した武将を列挙していますね。
お盆にはご先祖様と昔話
kunorikunori
以下のような参考資料がありました!

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/677/677PDF/saeki.pdf

北条泰時が後継者とみなされていた?
吾妻鑑は北条氏が書かせていた文書だったのでしょうか。
kunorikunori
Jikan様

頼朝の死は重要な事であったのに、なぜ吾妻鑑は3年間空白となるのか、そこが知りたいですね。
学者様に頑張っていただきたいなぁ。

誰かに都合の悪いことがあったのでしょうか。
jikan314
@watanabe_march 手賀沼様
深谷市は、昨年の渋沢栄一、今年の畠山重忠に期待を懸けています。
昨日39℃(熊谷市)には、驚きました。その前に訪れて良かったです。
拙句
カリフォルニアビーチの上で昼寝かな
watanabe_march
畠山重忠公、まさに埼玉の
英雄ですね。いぜんはその居館あとを毎年訪れていましたが、この3年休みです。
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