新古今和歌集の部屋

歌論 無名抄 俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事




今の御代には、俊成卿女と聞ゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔に恥じぬ上手共成りける。哥のよみ樣こそことの外に變りて侍れ。
人の語り侍しは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろ/\の集どもをくり返しよく/\見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける。
宮内卿は始めより終まで草子卷物とりひろげて、切燈臺に火近々とともしつゝ、かつ/\書付け/\、夜も晝も怠らずなん案じける。此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。
父の禪門
何事も身のありての上の事にこそ。かくしも病になるまでは、いかに案じ給ふぞ。
と諫められけれども用ゐず、終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。
寂蓮は此事をいみじがりて、兄人の具親少將の、哥に心を入れぬをぞ憎み侍し。
何故に身を立てたる人なればしかるらん。殿居所をまれ/\立ち入りて見れば、晴の御會などのある比も「弓よ引目よ」など取散らして、細工前に据へて、哥を大事共思はぬとて、口惜しき事にぞいひ侍し。


○俊成卿女
藤原俊成卿女。鎌倉時代の歌人。祖父俊成の養女となる。源通具の妻で後に出家し、嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。
○宮内卿
(?~1205年?)源師光の娘。後鳥羽院の女房。16歳頃で歌壇にデビューして、定家や俊成と歌合で競うなどしていたが、20歳頃で死去。春歌上 76の歌より若草の宮内卿と呼ばれた。
○父の禪門
源師光。平安時代後期から鎌倉時代にかけての官人・歌人。
○寂蓮
(1139?~1202年)俗名藤原定長。醍醐寺阿闍利俊海の子叔父の俊成の養子となり、新古今和歌集の撰者となったが、途中没。
○兄人の具親少將
源具親(?~1262)師光の子。従四位下左近少将。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「無名抄」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事