「ホワイトウォッシュ」批判のように、欧米圏から波及する価値観である政治的な正しさ(Political Correctness、略してポリコレとも)を追求する潮流に対して、国内でも一定の反発が見られる。
ポリコレを政治的正しさと訳す時点で?マークが頭を過ります。
何故ポリコレと簡略して呼ばれるのか、それはポリコレは正しくもなんともない単なる金儲けの弁解です。
普通にポリコレと言ったら、作品にケチを付けてその作品に多様性を求めるなどヤクザ紛いの行為でしかありません。
例えば、日本で有るのだと同和問題やアイヌ民族問題でケチを付けてそれなりの代償を取る似非団体や個人がこれの悪い例です。
そしてそう言うのが問題を起こすと言うパターンが確認されています。
ネットのスラング公金チューチューなども似た原理で正当な理由はあるものの詳細になると怪しいと言うのが指摘されます。
最大の懸念は破壊活動をしていた過激派に資金が渡る事のようです。
実際に正当な問題をネットで公開で指摘して修正または中止させるような事もありますが、それをポリコレと呼ぶかは難しいです。
アニメ作品などにポリコレまたは大手のブランドが介入しょうとすると確実にファンから嫌がられます。
下手すると不買に近い状況になります。
アニメの実写化に近い反応で拒絶されるのでしょう。
アメリカだとデズニーのポリコレ版はつまらないとなります。
ほぼ正しくもない、こんな言い掛かりに反応するマスコミや間違った経営コンサルタントがおかしな話をし出すのです。
普通は差別的な表現と言うのは公開されてから、反応としてこれは該当する対象者に嫌な思いをさせるまたは差別を助長するからやめてくださいとなるのです。
ポリコレの団体等はその問題になる前に取り除き、そう言うのを差し障りのない表現を指導しようと言うのです。
ところが現実的にはどちらかを立てると結局長い文書で読むのに時間がかかるだけでなく、後から証拠に出しても意味がない規定なんです。
国際規格ですら、その後に問題になるくらい大変なのに無理してポリコレに付き合う必要はむしろSDGsならその会社の寿命を縮める間違った行為なります。
だから、ポリコレと簡略化して訳した言い方しかしないのでしょう。
基本UBIソフトがフィクションとせずに史実に拘ったと言ったのが不味かったのでしょう。
後で創作だと謝罪しています。
ただ、その反応の悪さから粗探しは続き、更に源流の日大准教授のトーマス・ロックリー氏の研究やその著書にまで問題を探すような状況になったのもあります。
開発チームが声明の中で、謝意を示しつつも「フィクションであること」を強調したのは、そういった理由からだろう。
もちろんフィクションにも、描く対象に対するリスペクトは必要であり、本作の描写がどうだったのかについては、リリース後も慎重に議論されていくべきだろう。
問題はここなのでしょうね。
対象に対するリスペクトがないと結局見た人は文化を登用して生半可な作品で歴史改竄をしているのでは?と疑念を持たれます。
話は前後しますが、怖いのは下記のような話で誤解がそのまま史実と勘違いされてしまう事です。
同シリーズは声明の通り、あくまで歴史をモチーフにしたフィクション作品だ。一方で、古代エジプトを舞台にした『アサシンクリード オリジンズ』(2017年)では、ピラミッドの忠実な再現が高い評価を獲得した。
公式からも後に、古代エジプトを観光できる「Discovery Tour」モードが「学習用教材として使える」という謳い文句と共にリリースされている。
その結果、「アサシン クリード」は史実や現実を忠実に描いた作品である、という認識が広まってしまった。
日本人または日本の国がこの作品に拘るのはこの作品による誤解を招くのは避けたい嫌な過去があるからです。
慰安婦像に見られるような間違った歴史認識と韓国に有利な出鱈目を定着させようとしているだけで売春婦と言うのさえも何か強制されたと思わせています。
確かに募集したのですが、連れてきたのはその国の人です。
そう言うような滅茶苦茶な話をでっち上げられたら反応も敏感にならざるを得ないのです。
この記事を書いた方はプレーして評価すると言っていますが、出来れば買って欲しくないのが大半なのかと思っています。
買われて数が大きいとそれだけこの手法が通ると勘違いされ、奴隷を連れて来たイエズス会の悪行をまるで日本で黒人奴隷が発祥したかのような誤解を招く著書がある人の監修なんです。
ましてイエズス会は日本人も奴隷として売り捌いたから秀吉からキリスト教禁止令を出されるに至ります。
何度かこの話題を取り上げていますが、重要かつ取り返しのつかない事態は避けたいので宜しくお願いします。