さて今日は大阪Station Cityの開業から丁度1年が経過した日です。
今回は開業直前の大阪駅の様子に関する話題です。
これは開業の約7ヶ月前(8月上旬)の大阪駅の様子です。
コンコースやドーム屋根に関してはこの時点で殆ど整備が完了していました。
しかし橋上駅舎やそれに続くエスカレーターや階段については完成していませんでした。
(駅ビルに関しても同様に順調に整備が完了しつつありました。)
ちなみに当初の計画ではドーム屋根部分に存在するホーム屋根を撤去する計画が存在しました。
ですが皆さんも存知の通り既存の古い屋根に新たにガラス板を設置する方法が採用されました。
今日で開業1年を迎えた大阪Station Cityは更にどの様な進化を遂げるのか…。今後も目が離せません。
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皆さんはかつての六甲道駅の姿を覚えていますか?
実はこの駅はかつての阪神淡路大震災によって激烈な打撃を受けた駅でもあります。
(この駅は新長田駅と同様に最後の最後まで復旧に手間取っていました。)
始めに下の画像は2011年4月上旬現在の六甲道駅の様子です。
駅舎は高架構造をしており高架橋部分には2面4線配置でホームと線路が配置されています。
この画像を見る限り、特に大きな被害を受けた事は判りません。
続いて震災発生直後と震災から約10年後の六甲道駅の様子がこちらです。
駅舎は1階部分が完全に押し潰され、枕木と線路が宙吊りという無残な姿へと変わり果てました。
その後、高架橋部分は油圧ジャッキで既定の高さまで戻された後、崩壊した橋脚部分が再構築されました。
(これによって工事期間を約2年⇒81日と劇的に短縮する事に成功しました。)
あの日から約16年が経過した現在。震災の面影を残す形跡は殆どありません。
強いて言うのであれば外壁部分(写真右)に微かな罅跡が見える程度です。
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今日は土山駅周辺の播磨町郷土資料館を訪れてきました。
そして資料館の屋外に位置する「ある場所」に向かいます。
かつて別府鉄道で活躍していた車両が保存されている広場です。
資料館の営業時間内であれば車内に立ち入る事も可能です。
まずは別府鉄道の路線内容を簡単に紹介します。
別府鉄道は機能樹脂や化学肥料などを運搬する目的で大正12年に土山駅~別府港駅間で開通しました。
基本的に貨物輸送が主体の路線であった為、殆どの列車は貨物列車に併結する形で運転されていました。
(肝心の旅客列車の本数ですが1日僅か4往復しか設定されていませんでした。)
それでは本題です。始めに機関車に連結されているハフ5号客車の様子です。
製造当初はガソリンカーでしたが後に現在の姿である客車に改造されました。
この車両は昭和59年1月31日の営業最終日までハフ7号客車と共に運用されました。
続いて主に入替用車両として使用されたDC302号機関車の様子です。
基本動力はディーゼル機関で台車は4軸方式が採用されています。
そして運転台には変速機や逆転機、各種計器類などが設けられています。
また下記の写真はかつて実際に線路が敷かれていた場所の現在の様子です。
廃線後、殆どの区間は遊歩道(であいの道)として整備されました。
ちなみに現在の土山駅の駐輪場部分(写真4枚目)には別府鉄道用のホームが存在しました。
そして昭和63年1月31日。記録的な大雪が降りしきる中、別府鉄道は61年間の歴史に幕を閉じました。
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今回は1986年まで列車が運行されていた旧福知山線の廃線跡を探訪してきました。
(取材日は平成22年3月24日[日曜日]です。)
摂津鉄道時代から活躍していた旧福知山線の魅力を数多くの写真を交えて紹介します。
武田尾駅を出て暫くの間、川沿いを進みます。
この辺りは民家が何軒か立ち並んでいるだけです。
(赤い橋脚の場所がスタート地点です。)
そして私は足元の枕木を頼りに歩き続けます。
スタート地点から暫く歩くと1個目のトンネルに入ります。
なおトンネル内部には照明が一切、存在しない為に懐中電灯などを必要とします。
トンネルを抜けると進行方向右側に渓流が見えてきます。
武庫川沿いを走っていた旧福知山線は「風光明美な路線」として知られています。
また旧福知山線は現福知山線とは異なり、全区間が単線区間でした。
更に道を進むと赤錆を帯びた鉄橋が見えてきます。
鉄橋に帯びた赤錆と枕木に生えた苔が長い歴史を感じさせます。
(鉄橋の枕木上に見える鉄線は線路を固定していた金具です。)
そしてその後も道は武庫川沿いに続きます。
心地よい春の日差しと渓流の流れが「日々の心の疲れ」を癒してくれます。
徒歩移動でしか味わえない醍醐味がこの廃線跡には数多く存在します。
また沿道には信号場跡や速度制限標識などの鉄道設備が存在します。
かつて裏側で安全運行を支えた鉄道設備の面影を探す事も廃線探訪の楽しみの一つです。
武田尾駅から歩く事約1時間半、廃線区間は終わりを告げて一般国道に入ります。
ここから更に15分程歩くと現福知山線の鉄橋が見えてきます。
そして武田尾駅から歩く事、約2時間。ゴール地点の生瀬駅に到着しました。
こうして私の今回の廃線探訪は完全に幕を下ろしました。
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今回は現在から3年前の今日に廃止された三木鉄道の話題です。
かつて国鉄三木線として栄えていた当鉄道の最後の活躍を見てみましょう。
(取材日は廃線約10カ月前の6月某日です。)
今回、乗車した車両はこちらです。(写真は終点の三木駅で撮影した物です。)
三木鉄道が最後まで保有していたミキ300-104号機です。
また車体側面には車体番号と社章(写真右)が描かれています。
続いて車内と座席、その他の設備の様子です。
車内は中心部がボックスシート、昇降口付近がロングシートという構成です。
そしてロングシートの一部(緑色)は優先座席として使用されています。
そして先頭部分の運転席の様子です。
運転席左側には逆転機とマスコンハンドル(写真2枚目)、右側にはブレーキハンドル(写真3枚目)
走行距離が4,128,273kmと表示されている点からかなりの距離を走行していた事が分かります。
やがて列車は厄神駅を発車します。
列車は長閑な田園地帯をのんびりとした速さで駆け抜けます。
また基本的に駅間距離が短い為、加速すると直ぐに減速体制に入ります。
厄神駅から約20分。終点の三木駅に到着しました。
この駅舎は三木鉄道の前身である国鉄三木線時代の物を使用しています。
そして駅構内には整備工場(写真4枚目)が設けられています。
廃線から約3年後の現在の厄神駅の様子(写真3枚目と4枚目)です。
駅構内に敷かれていた線路は撤去されホーム部分には柵が設けられています。
(写真1枚目と2枚目は廃線約10カ月前の厄神駅の様子です。)
そして平成20年4月1日、三木鉄道は惜しまれながらも約90年の歴史に幕を閉じました。
(今回、取材したミキ300-104号は2011年現在、北条鉄道で第2の人生を送っています。)
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明日はキハ181系が浜坂発の特急「カニカニはまかぜ」をもって営業列車の運転を終える日です。
この列車をもってキハ181系は約42年の長い歴史に幕を閉じることになります。
そして下の動画は約1ケ月前にYou-Tube上に公開した動画です。
既に見た方も未だ見ていない方も是非、もう一度ご覧下さい。
内部リンク
・全線乗車旅行記-2010秋編 後編
http://blog.goo.ne.jp/jr-kinki/e/19bbc40826d8ae3912255375bf9a9372