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(日タイ修好130年の軌跡)
■「日タイ修好130年の意味」
●日本の今年は,日タイ修好130周年、来年は,明治開国150週年と
栄光の歴史年が続く。 そのせいか、いま日本のシニアの間で日本や
世界の歴史を学び直す「リカレント」が静かなブームである。
その証左か都心の書店では「危機の時代こそ、その答えは日本史に」
を標榜する 外交評論家 佐藤優さんの著書「いっきょに学び直す日本
史」が、ベストセラーになっている。
●先日行われた 衆議院総選挙での与党の圧倒的な勝利を見て、海
外のジャーナルは、「安部首相ひきいる連立与党は、北朝鮮リスクが台
頭するにも拘らず過半数に議席を伸ばし、憲法改正発議に必要な議席
を確保した」と伝えた。
それを見た評論家の佐藤優さんは、「現存する日本人が、改めて日本
史をひも解く事によって、これからの日本の危機の時代を、どう切り拓い
ていくべきか、その答えが生まれてくるのではないか」と書き記している。
■「史実を並列して見る」
●佐藤優さんの指摘に従い、日本の史実をA軸、タイの史実をB軸とし
並列表示して歴史の流れを見ていくと、物事の時代背景や 事象の関
係性が よく解って面白い。
●日タイ修好条約は、明治に入り1887年,アジアでは初の外交交易の
締結となった。 しかし この口火を切ったのは、まだ日本が鎖国状態だ
った1854年に、江戸幕府が外交圧力に屈して 欧米列強5ヶ国(米国、
英国、仏国、露国、蘭国)と締結した通商交易条約だった。
勅許をまたずして外国の列強と調印した 幕府井伊大老の独断を非難
する尊王攘夷の運動は、水戸藩を機にして全国に広まり、とくに 長州
藩では、藩を挙げての政治運動にまで高まっていった。
●その尊王派を弾圧した大老 井伊直助の安政の大獄に激怒した尊王
攘夷派は、桜田門外で井伊大老を刺し、これを契機にして坂本竜馬の
統幕運動がおきた。
続いて「鳥羽伏見の戦い」や「戊申戦争」など、討幕と開国のための小競
り合いが続いた。 そしてついに大政奉還が実現する。
鎖国状態の中、ぺりー来航後、初の5ケ国修好条約が締結されて 15年
で幕府が倒れ、明治政府が誕生し、日本の近代化が始まる事になる。
それからわずか16年後には、日タイ修好条約が締結されたことになる。
●タイを研究する識者によると、
・約600年前には、琉球との間で朱印船による民間貿易が頻繁にあった
こと、・タイのアユタヤでは、1604年当時、日本人町が形成され1500人
の日本人がいたという事など、日本とタイの関係は意外と旧いという事が
明確になってきた。
●なにはさておき、空路も電話もパソコンもなかった時代に当時の人々
が、よくぞ遠い異国との交易を始めたものと、その先取性に、ただただ頭
が下がる思いだ。
●ふりかえればこの130年は、世界にとっても、アジアにとっても、日本
にとっても、まさに激動の1世紀だった。 特に明治から大正、昭和への
移り変わりは、明治維新開国後、急速に進歩する世界の近代化の中に
あって、第1次、第2次の世界大戦をはさんで特別の時代だったと言って
いい。
■「鎖国から開国へ,激動の足跡1)
■(江戸時代/鎖国)
(年次) (日本の出来事) (年度) (タイの出来事) ・
・1603(慶長03年)●徳川家康、江戸幕府を開く
・1612 ●山田長政が朱印船でアユッタヤへ
・1614(慶長19年)●大阪冬の陣
・1630 ●長政ナコーンシータマラートで死去
・1633(寛永10年)●第1次鎖国令
・1635(寛永12年)●参勤交代制確立
・1639(寛永16年)●鎖国制完成
・1641(寛永18年)●オランダ商館を長崎出島に移す
・1656 ●ナーラーイ王即位
・1687 ●フランス使節団がバンコクを占拠
・1702(元禄2年) ●赤穂浪士吉良を討つ
・1778(安永7年) ●ロシア船来航、通商要求
・1767 ●ビルマによりアユタヤ陥落
・1779(安永8年)) ●松前藩ロシア船要求拒否
・1768 ●タークシン王即位,トンブリ朝成立
・1782 ●タークシン王処刑、
・1782 ●チャックリーが即
・1782 ●ラーマ一世が即位、
・1785 ●ビルマ軍、タイを再攻撃
・1792(寛政4年) ●ラクスマン、根室に来航、通商要求
・1804(文化4年) ●レザノフ長崎に来航
・1809 ●ラーマ2世即位
・1816(文化13年●英国船琉球に来航、貿易を要求
・1822(文政5年) ●英国船浦賀に来航飲料水を求む
●中国華僑, タイへの移住(203万人)
・1825(文政8年) ●幕府諸異国船の打払指示
・1824 ●ラーマ3世即位
・1836(天保7年) ●ロシア船 択捉に来航
・1844(弘化1年)●オランダ国王の親書届く
・1853(嘉永3年) ●ペリー来航開国迫る
・1853 ●ラーマ4世即位
・1856(安政3年) ●米国ハリス、下田に来航
・1858(安政5年) ●日米、日英、日露、日蘭和親条約を締結
・1856(安政5年)●日米修好通商条約に調印
●19世紀初頭の東南アジア情勢は、どうだったか。
日本は江戸幕府、鎖国さなか産業革命を得て、力をつけた欧米諸国は、
大量生産時代に入り、新しい市場を求めて、積極的に海外に乗り出して
来るようになった。
●日本では、1808年にオランダ船が長崎に、1811年には樺太サハリン
や択捉をロシア船が攻撃している。1837年にはアメリカ商船が、時の長
崎奉行の異国船打払令で撃退されている。
●同じころ1824年、タイの隣国ビルマは、英国と戦い敗れて ビルマは
英国の植民地になった。 それを見たタイは、いち早く英国と通商の自由
化をするが、英国とは、「不平等な治外法権」や、「完全自由権の撤廃」な
どを強いる不平等条約を結ぶことになる。
●時のタイの国王モンクットは、危機を読み取り 当時タイが宗主国だった
カンボジアとラオスをライバルのフランスに渡し、英国と仏国の中立地帯を
確保して国体を守ったといわれる、先進の英国の知識を取り入れるために、
英国女性の家庭教師を雇った伝記「王様と私](アンナとシャム王)は、映
画化されたことでも知られる。
●この頃の東南アジアは、タイを除くほぼ全ての国が、欧米の列強国の植
民地になったが、ただタイのみ、時の国王の優れた才覚と外交力によって、
欧米列強の魔手から逃れ、厳然と自立を保ってきた。
今もタイの王室が、国民から格別の敬愛を受ける理由がうなずける、今も
世界の外交史に残る特異な史実と言われる所以である。
■「鎖国から開国へ,激動の足跡2)
・1858[安政7年)●井伊直弼が幕府の大老に就任、
米英仏露蘭5ヶ国と修好条約を結結
・1859(安政8年)●安政の大獄
・1860[安政9年) ●勝海舟訪米使節団、咸臨丸で訪米、
日米修好通商条約の批准書交換
・1860(万延1年)●桜田門外の変
・1862(文久2年)●坂下門外の変、
●生麦事件
・1863(文久3年)●薩英戦争 ●カンボジアのフランス保護国化決定
・1864(元治1年)●4国連合艦隊、下関を攻撃
●第1次長州征伐
・1865(慶応1年)●第2次長州征伐
●条約を勅許にする
・1866(慶応2年)●薩摩と長州が連合して薩長連合を結成 統幕を進める、
●家茂が死去、徳川慶喜が第15代将軍になる
・1867(慶応3年)●大政奉還
●5ヶ条のご誓文
●王政復古、
●国交樹立
・1868(慶応4年 ●江戸城開場
●戊辰戦争
●勅許をまたずしての条約調印は、無効だという、井伊直弼大老の独断
専攻を非難する尊王攘夷運動が、水戸藩から全国に広まっていった。
また長州藩では、藩を挙げて統幕運動が 一気に高まって行く。
●その尊王攘夷運動を弾圧した大老井伊直助のいわゆる「安政の大獄」
に反発した尊王攘夷派の人々は、遂に桜田門外で井伊大老を刺す。
そして、これ契機にして、坂本竜馬など勤皇の志士が主導す統幕運動が
全国的に高まっていく。因みに当時の日本の人口は約2000万人だった。
●これにより「鳥羽伏見の戦い」や「戊申戦争」など、討幕と開国のための
小競り合いが続くが、遂に幕府の大政奉還、王制復古が実現する。
そうして、いよいよ日本の近代化が始まる。
■「鎖国から開国へ,激動の足跡3)
(明治時代) (日本国の出来事) (タイ国の出来事) ・
・1868(明治元年)●明治と改元
●明治天皇が即位 ●ラーマ5世即位
・1869(明治2年) ●江戸を東京と改称
●四民平等
・1871(明治4年) ●廃藩置県3府72県に統合
・1871(明治4年) ●郵便制度始まる〒
●大久保利通ら欧米視察団
・1872(明治5年) ●義務教育の学制小学校
●電信東京ー大阪開通
●太陽暦を採用
・1873(明治6年) ●徴兵令
●地租税(3%)公布
●西郷隆盛が征韓論を主張
・1874(明治7年) ●藩閥政治の不満から板垣退助が民選議院制度を建議
(自由民権運動)
・1877(明治10年)●西郷隆盛、西南戦争起こす
・1881(明治14年)●国会開設の詔(1890年議会開催を予定)
・1882(明治15年)●大隅重信が立憲改進党を結成
・1884(明治17年)●鹿鳴館で舞踏会が盛ん
・1885(明治18年)●内閣制度が確立伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任
・1887(明治20年)●東京に電灯がともる
・1887( : ) ●日タイ修好条約締結宣言調印国交開始
■「歴史があるから今がある」
●鎖国状態の中、ぺりー来航後 初の5ケ国修好条約が締結されてから
わずか15年で幕府が倒れ、明治政府が誕生する。そして日本の近代化
が始まる。 それからわずか16年後には日タイ修好が始まる事になる。
新しいアジアのスタートである。
●日タイ修好130年の修好は、日本国とタイ国が、公式に修好通商条約
を締結する事で始まる。
130年前の1887年9月26日、時のタイ王国の外相 テーワオン親王が、
英国ビクトリア女王の「即位50周年式典の帰路に来日し、「修好通商に関
する日本国タイ国間の宣言」に調印、日タイの外交が公式に始まる。
1996年に時の日本の首相大隈重信は、外交拡張政策の一環としてバン
コクに公使館を設置し、初代公使に稲垣満次郎が任命され、公式に国交が
始まる。
首都東京に、日本で初めて電灯が灯った年に、日本とタイの交易が公式に
始まったという事は、なんといしても、凄いの一語に尽きる。
●「歴史があるから今がある」
どうあれ、先人が築いた130年に及ぶ輝かしき足跡を大切にしたい。
次回からは 明治、大正、昭和、平成と、2つの世界大戦を挟んで日タイ両国
が、どのように協働してきたか。つぶさに見ていきたい。 (続く)
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